シバちゃんのため息

マヨの古代史 最新版

記事の前に業務連絡?です。
うつ病に関し、貴婦人さんよりコメントをいただきました。ありがとうございます。非公開になっているので残念ですが公開しません。非公開のコメントはなかなか見逃すことが多く、返事が遅くなってすいません。クリニックを開業されていた方からのメッセージですので貴重です。

もうひとつ、中央大学の教授殺害事件について。逮捕された容疑者の顔写真だが、どう考えてみても修正されている。目の形が不自然で、いかにも悪いことをしそうで、なおかつ精神的に異常があるように見せている。これは裁判員制度を控え、いらない先入観を植え付けるための策謀ではないか・・・・。と私は思うが、どう?
さらに、もうひとつ。インフルエンザ騒動は終わるみたい。つまり、やはり予行演習?だったんだ。

連絡は以上。では本文に・・・・・

満州の研究を始めようと思っているところへ、サムライさんから、「邪馬台国は秋田にあり、秋田と北朝鮮は深く結びついている。」と言う意見が複数からあります、マヨちゃんどうする?との連絡があった。

まず、ひとつ。地図を見てもらえばすぐにわかるが、古代から満州地方と秋田、新潟は海でつながっていた。これは栗本慎一郎氏の「シリウスの都・・・」などで十分に知られている話である。すなわち、対馬海流が危険で船で渡れない時代には、大陸からの人と文化は満州地域から直接もたらされたと見るべきなのだ。もちろん、いつ頃から始まったかはわからない。
さて、満州といえば、高句麗か渤海だが、私は吉林に注目したい。ここには白山と言う地域もあり、白頭山はあの檀君神話の本場である。白山と言えば白山神社だ。祭神は菊理姫で、実際はシラヤマ姫である。シラと来れば当然新羅が思い浮かぶ。恐山のいたこはおしらさまのお札を持つと言う。
かつて、この件が問題となったのである。即ち、キクリ姫はなぜかくくり姫と読み、それを私は「コクリ姫」、つまり高句麗姫と読んだのだ。この矛盾、高句麗なのか新羅なのか、でもこれは簡単な話だったのだ。
高句麗が魏の精鋭に追われ、長春?から逃げた時、一部がそこに残り新羅となったと中国の文献にある。高句麗の中に新羅族がいて、彼等が新羅になったと考えられる。つまり、私の主張は新羅が現在の吉林省にいたということだ。
証拠は少ないが、鶏林という新羅の首都は吉林と読みがおなじだ、これが正しければ矛盾なく檀君神話が高句麗、新羅共通のアイデンティティーとなろう。
中国の文献では、その後高句麗は勢力を取り戻し遼東へ進出してゆくとある。

現在、北朝鮮と満州の国境付近には同族である朝鮮族が暮らしている。言うまでもなく国境が後で出来たのであって、もともとは同じ人種なのであろう。
彼等が船で東北地方へ移住したり交易したのは当然で、縄文人が南方から来た人ばかりではないのである。ちょっとくどくなるが、渤海使が奈良の聖武天皇に面会するのに出羽国から入って来ている。もちろん、当時、統一新羅と渤海は対立状態で、日本と提携し新羅を挟み撃ちにする計画だった。

今の歴史教科書によると新羅が満州にいた記録はない。しかし、それは大きな間違いである。これはマヨ理論でしか解決できない話になる。
統一新羅が出来るのは白村江で倭と百済が唐と新羅に負けた後、高句麗が唐に亡ぼされた頃である。私はこれが真っ赤なうそだと思います。

仮説・真実の韓半島・マヨ理論(日本でこの説を唱える人はいません。まったくオリジナルな理論です)で説明します。トンでもと思う方は読まなくても結構です。

実は唐は高句麗(コグリョ)に破れ、新羅(シルラ・シンラ)はすでに高句麗に吸収され消滅していた(645年に大化の改新があった様に書かれているが、そのような事実は日本にはない。つまり、この年が重要だったのだ。)
高句麗の将軍、淵蓋蘇文(ヨンゲムソン)は実はソグド人の可汗であり、唐の李世民を屈服させた後、唐も高句麗も支配下においたと見ている。以上の話はすべて鴨緑江より北の話で、韓半島の話ではない。つまり、中国の主張、渤海は現在の中国領の一地域での出来事であったというのは正しいといえる。もっとも、当時、中国領ではなかったのだが・・・・。

唐の李世民は確かに突厥を破り名誉ある天可汗となったが、645年に高句麗に負け、その地位を失う。これは突厥と高句麗が力を合わせた結果で、史書には現れないが淵が天可汗となり、648年、世民が死ぬと淵は高宗を傀儡として天皇とした。天皇という日本の支配者の呼称は、実はこちらが本家である。つまり、天皇は可汗のことで、後に中華思想からその事実を隠すため二度と使われていない。もう一度天可汗の地位をもらうまで則天武后という女帝時代として歴史事実を隠蔽した考える。

韓半島はその頃少なくとも三つの国に分かれていた。倭国、安羅国、加羅国である。(たぶん・・)
そのうちの倭国が淵に追われ九州へ逃げ込んだ。そしてついでに日本を自分達の物にした。淵は韓半島へ進出し、三国をまとめて新羅と名前をつけた。666年、淵が死んだ後、唐は反逆し、周となり、高句麗は渤海となり、日本は倭国が制圧する。
飯山先生が天武は済州島の出身といわれるが淵から指名され可汗となって九州へ乗り込んだという説もひとつの見識だろう。いうまでもなく、当時九州は伽耶国で、天智が支配者であった。

それらの実態を隠すため、唐も高句麗も倭も新羅も大幅に歴史を偽造する事になった。すべてソグド人、淵蓋蘇文の支配をなかったことにするためであろう。
新羅の三国史記を見ると始祖が三人いる。これは三つの国が集まった事を示している。その中のひとつは倭国であり、一つは伽耶であり、ひとつが本物の新羅だろう。

まあ、とんでもないと思うのは自由だし、これを証明できない自分がもどかしい。あまりにも画期的な考え方で自分でも全部の整合性が取れない。でも、真実は恐らくこのようなものなのだ。

倭国の支配者が九州から奈良へ進出し、旧原住民を制圧した。もちろんそれまでにもいろいろな民族、部族が日本に来ていた事は言うまでもない。ただ、日本の国体が定まり、大きな侵略が終わったのが670年ごろであったということである。

いずれにしても満州で五族協和を唱え理想の国家を建設しようとした人たちと、あくまで満州人を劣等人種と考え彼等を虫けらのように扱った人たちとは基本的に部族が異なっていたと考えるしかない。しかも、軍部首脳そして国家の指導者達はそれらの歴史を知っていたに違いないのだ。我々がそれを知らないのは昭和になってからの歴史教育が大幅に捏造されていたからである。

韓国も中国も、もちろん日本も間違った歴史認識だと罵り合っているが、みんながマヨ理論を学ぶ事で、争いの原因が遠くシルクロードの向こうからやってきた人々のおかげである事を知る事だろう。

出羽国から侵入した新羅・高句麗部族は栗本氏の考えたとおり鹿島神宮で建国した。そして西へ侵攻する。鹿はスキタイのシンボルであり、奈良の都に鹿が多いのはそのせいである。彼等と戦った記録がおそらくヤマトタケルなのだろう。平将門の乱が単なる地方の武将の反乱と見るのは歴史の捏造であり、建国した大和王朝にとって存亡をかけた大きな争いであった事はいうまでもないことだ。

・・・・また気がむいたら続けます。
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by sibanokuni | 2009-05-24 14:05 | マヨちゃんの古代史
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ため息ばかりのシバちゃんと、ぼやいてばかりのご主人様、マヨの日記です。
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