寺院調査報告(その1)
日曜日、せっかくだからお寺のお勉強をするつもりでネットでサーフィンをしていた。結論から言うなら、とんでもないことだった。お寺を調べる事は日本の歴史そのものではないか。考えてみればあたりまえで、天皇家がひとつなのに寺院は全国に何千もあり、宗派も派閥も限りなくあるのだ。それに一番問題なのは、少しも楽しくないこと。名前は読みにくいし、専門用語はたくさん出てくるし、これを調べ、書き出しても誰も読む気にはならないだろう。こまっちゃうな。
そんな中でいくつかの発見はあった。たまたま円山応挙を調べていて、WIKIに「1766年、応挙は三井寺円満院の祐常門主の知己を得る。祐常は公家の二条家から門跡寺院に入って僧となった人物で、・・・・・・・この祐常門主や豪商三井家が応挙の主要なパトロンであった。」とある。この応挙という画家は例の出口王仁三郎の父、上田家の祖先なのである。三井寺=園城寺と三井家とのつながりはなかなか見出せないが、たまたま応挙のパトロンという線でつながりが露呈したといえる。 日本の財閥で一番ユダヤっぽいといわれる三井家が古代イスラエル部族、穴太衆をバックアップしていたというのは考えてみればあたりまえとも言える。 この三井寺というのは天台宗総本山を名乗っており、比叡山とは歴史的に天敵である。この寺門派と延暦寺の山門派の争いは現在でも収まっていないようである。 さてもうひとつ、聖護院という寺院を調べていた。これは先日のレポートにあったように、堀川辰吉郎を支える京都閥のひとつに上げられていた。 ここで、聖護院をWIKIでみると非常に興味深い事実が浮かんでくる。もともと聖護院は園城寺の増誉が開祖である。彼は1090年、白河上皇の熊野詣の案内役を務め、その功により熊野三山霊場の統括責任者に任じられた。そして役行者が創建したという常光寺を下賜され、これが聖護院の創建なのである。また、代々法親王が入寺する宮門跡寺院として天台宗内でも重要な地位にいたという。どうだろう、ここで、この聖護院と園城寺、さらには熊野、ついでに役行者までつながる。江戸時代、修験道は幕府の政策により、「本山派」「当山派」の2つに分かれたが、聖護院はこのうちの本山派の中心寺院であった。 さらに、さらに、1788年(天明8年)と1854年(安政元年)の内裏炎上に際し、光格天皇と孝明天皇が一時期仮宮として使用していたという。 ここで今ひとつ思い出していただきたい。明治維新を最初に計画したのは光格天皇と水戸藩だという噂をである。その光格と最後まで攘夷を主張し殺害されたといわれる孝明天皇とがこの聖護院の門跡、盈仁法親王とは血縁だったのである。 大本教のバックにこのような勢力が控えていたという事をぜひ頭に入れておきたい。 従来から述べてきた、寺社が支配者であるという結論を変える必要はないが、やはり権力構造はそれほど単純ではなく、敵の敵は味方という原則は生きているし、敵の行う分断政策は外からはなかなかわかりにくいものである。 ああ、くたびれた、今日はここまで。
by sibanokuni
| 2009-08-02 16:09
| マヨちゃんの陰謀論
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