シバちゃんのため息

平家は鮮卑、慕容氏?

毎日たくさん人に見ていただいている。感謝に耐えない。こんな誰も信じてくれないような話ばかりを毎日400人から500人の人が見ているのだから、まことに不思議であります。

さて、今日はさらにわけのわからない話になってゆく・・・・、さてさて・・・源氏系を調べていてわかってきた、日野家、滋野家などのルーツは藤原の北家である。ここと佐々木源氏のつながりはやや乱暴な気がしないではないが、近江の日野町、園城寺などの関係を含め、ほぼ断定してもかまわないのではないだろうか。つまり、藤原の北家はオオサザキ、つまり仁徳天皇のお種を受け継いでいるという事を・・・・。
源氏と言うのは過去に何度も検討したが、私の結論として北魏の支配家系、拓跋鮮卑族のことである。

日本の歴史教育が根本的に間違っているのは、日本に一番影響を与えた国の歴史をほとんど教えていないということだ。この北魏、そして高句麗、渤海、さらには契丹という、満州方面を支配した国をほとんど無視している。これは私としては意図的としか思えないが、いずれにしてもこの北魏という国は日本に一番影響を与えた国だと言っても過言ではない。なぜ陸軍が満州にこだわったのか、なぜ黒龍会が出来たのか、単に、地政学的に重要な地区だったからでは説明できないのではないだろうか。日本に大陸の文化が流入したと言うが、少なくとも古代に限ればほとんどが満州から直接日本にもたらされという事をどうしても認識せねばならない。ここは重要だから言っておきますが、必ずしも半島を経由せずに直接、人も、物も、文化も渡来した部分が多いのである。つまり、対馬海流と言うのは相当流れが速く、静かな日本海のほうがはるかに簡単に、安全に渡れたのは事実なので、以前、北朝鮮のボートが新潟方面に漂流したことがあるが、黙っていても日本にやってこれたのだ。何でも中国や半島からもたらされたと言う考えは改める必要がある。

北魏(ほくぎ、386年 - 534年)は後半、元と称したので元魏とも言われる。彼等の特徴は、もともとは蛮族だった過去を忘れ(隠し?)、漢王家との婚姻をくりかえし、ついに漢人になりきってしまったのである。つまり、中華思想というものは北魏が元祖といってもいいのだ。
彼等北魏は仏教を匈奴から来た野蛮な宗教という事で廃仏し、国教に道教を採用したのである。ところが、452年、太武帝が宦官に殺され、文成帝シュンが13歳で帝位を継いだころから徐々にかわり、文成帝は仏教の復興の勅をだし、皇帝権力に妥協的であった曇曜を沙門統に任じた。平城には寺院が建設され、その西側雲岡に石窟寺院が造営された。曇曜が作った石窟は曇曜5窟とよばれている。
493年都を落陽に移すまで平城を首都としていたが、最終的に東と西に分かれ、やがてそれらが隋や唐に引き継がれてゆく。
つまり、中国はこの北魏の前、代と言う国から10世紀まで、ほぼ鮮卑族が支配したと言っても過言ではないのだ。

聖武天皇の時代、都が平城京と名付けられていたのはおそらく奈良朝の支配部族が北魏拓跋族だったからと私は考えている。
即ち、持統天皇のころ日本を平定するに当たり、鮮卑族が天皇家の婚姻家系となり、おそらく聖武天皇らは傀儡で、安羅か伽耶あたりの王族だったのではないか。(これはまだ決めかねるが・・・)

なによりも私が論じたいのは藤原不比等のことである。藤原4家の始祖であり、文武天皇に娘宮子を嫁がせ首皇子(聖武天皇)を産ませている。さらに橘三千代との間の娘である光明子を聖武天皇に嫁がせた。さらにその息子の4人がそれぞれ日本を代表する家系の始祖となるのだ。
不比等が31歳で書紀に登場するまで彼の前半生は不明である。つまり、記録がないのである。
私はこの不比等を従来の歴史のように解釈することがどうしても出来ない、このような奇跡のような人間がいたとは信じられないのである。

そのひとつの答えを出してみた。つまり、北家はオオサザキ、つまり仁徳天皇の血流で、出身は北魏である。従って、宗教は道教もしくは道教と仏教の習合であり、源氏は鮮卑拓跋族が一緒に近江に渡来したのである。侵入経路はやはり敦賀と考えて間違いはない。

藤原4家に属するかは自信がまだないが、鮮卑で次に有力なのは慕容氏である。天理にある石上神社に収められている七支刀には、「百済王の世子は奇しくも生まれながらにして聖徳がある。故に倭王となし・・」と彫られているが、これは当時、遼東を支配した前燕の慕容氏が百済王の庶子を倭王に指名したことを示している。つまり、百済王も倭王も慕容氏の格下だったのである。

また、高句麗好太王も、明らかに慕容氏の保護下にあった安氏が指名され高句麗王になったものである。つまり、飛鳥を支配した韓半島南部出身の安羅氏は慕容氏にまったく頭が上がらなかったのである。
その慕溶氏の燕国は北魏の拓跋族に亡ぼされている。つまり、日本へ来た鮮卑慕容氏の天敵は源氏だったのだ。
状況証拠から見て、平家とは鮮卑慕溶氏の可能性が高いと思うがどうであろう。平清盛は源氏の御曹司、頼朝、義経の命を奪わなかった。つまり、格がちがうのである。清盛自体は生涯、源氏を亡ぼそうとはしなかった、つまり殺すことを遠慮せざるを得ない関係であったとみる。
河内源氏と言うのがある。これは以前考察したが、ダンジリ祭りからして檀族である。つまり、鮮卑段族ではないか。これはちょっと極端かな?残るは鮮卑宇文氏だが、これはなんの痕跡もないので保留だ。

一気に話をしてしまった。少し強引かもしれない。けれど、匈奴からやってきた支配者は寺社を隠れ蓑に、日本を実質支配した。これらに対抗する鮮卑族たちも、元をただせば天孫族の一員なのである。血流から言って匈奴と同等の権利があったのである。(つまり、お種度は高い。)
唯一のお墨付きが世界統一政府からの指令書なのである。ここに書かれている指令は匈奴も鮮卑も逆らうことは出来ない。つまり、それが善光寺の秘仏の中に隠されているのであります。(たぶん)

億うそさんの考察によれば、平家は「たいら・・たいる・・たら・・・多羅」で、半島南部に存在した多羅諸国だという。私はこの多羅=平家はたぶんそうであったと思うし、鮮卑、慕容氏だったと思うのです。
この話は続く・・・・
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by sibanokuni | 2009-09-09 06:24 | マヨちゃんの古代史
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