タラシと天皇家
昨日はタラシと足利氏の話をした。その足利氏を調べようと思ったが、いくらなんでも一日でそれほどの事が判るわけがない。ましてや足利氏の成り立ちなどはほとんど調べた事がないため、ブログに書けるような状況ではない。
隋書によれば倭国王多利思比孤(たりしひこ)が朝貢?したのは607年だそうだ。そしてあの有名な「「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」の国書となったわけだ。つまり、朝貢というのはあくまで中華思想であり、最低でもご招待、下手をしたら隋が人質を送った上で朝貢をしていただいたのではないだろうか。 いずれにしても隋王はもともと鮮卑拓跋の同族である、倭王はおそらく燕と高句麗の血縁だったであろうから、本来は隋とあまり仲が良いとは思われない。ただ、当時の高句麗を支配していた淵蓋蘇文という突厥系の武将とは敵対関係にあったのだろう、しぶしぶ旅順港(当時は卑沙・ピサ)の使用を許したのだ。 この倭国の貴族達がが韓半島を失い、部族ごとに日本列島へ逃げるのは645年以降の事で、タリシ族は日本列島を海岸沿いに北上し、越の国から群馬を経て下総あたりにいた旧高句麗族に合流したものと思われる。そして、河内源氏という大規模な古墳を造営していた同族を通じ天皇家から足利という姓を賜ったのだろう。 その足利氏と同族に新田氏がいる。おそらくは足利氏の中でも名家、いわゆる貴種だった可能性が高く、ここから世良田氏が出ることになる。つまり、以前の考察では徳川家康は世良田の次郎三郎であり、賎民部落出身だといったが、もともとの出自は倭王の系統であり、貴種として保存、つまり被差別部落に押し込められたという事である。日本という国がどのような成り立ちなのかを隠すため、秀吉も家康もあくまでその出自は明らかにされなかったのである。要は、その世良田から正田美智子として皇后が立てられたのは、正田家にその燕国の種が保存されていたからで、徳川幕府の極めて純度の高いお種が平成天皇へもたらされたわけである。 もっとも托卵であろうから、正田家に預けられた子種の秘密は大江衆だけが知る極秘事項である。 結局、天皇家とはなんなのだと考える時、私の歴史観からすれば、全国各地に散った源氏の血流というのは歴代王朝のお種センターであり、天皇はその時々の状況に応じ、そのお種を受け入れる代わりに政権を任せる立場にあったのである。その中で北条氏だけは日本の原住民系だったと私は思うのだ。 だからこその元寇であり、その時北条家は天皇家の力を思い知らされたはずである。ジンギスカン・義経説に対し懐疑的な人が多いのは残念な事だが、私から言わせれば武将の多くがその出自をそちらに求める以上、不思議でもなんでもない、しごく当然のことだったように思えるのだ。 一夜漬けの結果、この程度の記事しかかけなかった。わからない人にはなんのこっちゃ?という話だろうが、わかる人には恐ろしく大胆な歴史観だと分かっていただけると思うが・・・・。どや?
by sibanokuni
| 2009-11-01 07:00
| マヨちゃんの古代史
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