シバちゃんのため息

奈良遷都の本当の意味は

コメントの返事も含めて、今日は奈良時代に焦点を当ててみましょう。ただし、本格的にやろうとすると大変な事になるからあくまで「さわり」だけですよ。
いろいろ疑わしい事ばかりの日本史ではあるが、聖武天皇と光明子の存在自体は間違いがない。なぜなら渤海との外交文章は本物と考えるからだ。逆に言って、それ以前のいわゆる正史をどのように読むかが歴史研究家のセンスなのだ。

平城京はその名の通り、北魏の首都だった平城を真似た事はいうまでもない。つまり、北魏王家、鮮卑拓跋族は国家が滅ぶ時、高句麗を経由し日本へ渡ったのである。そして近江に入り、近江王朝を乗っ取り、そして藤原朝を亡ぼし平城へ都を移し、即位したのである。そして鮮卑四族が藤原不比等の子供という形で天皇の婚姻家系となったと考えた。しかし、その奈良にも九州から近畿地方に進出してきた寺院勢力、つまり匈奴・突厥族が攻め込んできたのだ。彼等は鮮卑の本拠地、春日大社を占拠し、興福寺を建立した。いわゆるGHQ本部である。

そのころ渤海からはるばる使者がやってきた。聖武天皇に対し、渤海と日本は親子のようなものだ、ぜひ仲良くしましょう、と言った。つまり、高句麗の後継者と言いながらも渤海の大王、武芸王は鮮卑拓跋族だったことになる。
当時、統一新羅、則天亡き後の新しい唐、そして突厥、渤海の関係はめまぐるしく変わっており、どことどこが連携するかは国家安全保障上大きな問題であった。当然、日本としては統一新羅を挟み込むためにも渤海との提携は望むところだったのではないか。突厥としては韓半島の入り口に当たる渤海は敵にしたくはなかっただろう。

しかし、当然ながら日本へやってきた匈奴・突厥軍としては面白くない。なぜなら渤海は聖武天皇に対し援軍を送ることになるだろうから。
そこで、匈奴・突厥族は藤原四家を亡ぼす事にした。正史には天然痘が流行り、全員が死亡した事になっているが、新型インフルエンザじゃああるまいし、これはあくまで真相隠しである。この事件の真相が日本史の中でももっとも深い闇である。なぜなら、その後の四家が日本を支配するのだから。

ついでに九州では藤原広嗣の乱というのがあるが、聖武天皇が都を捨て東へ走ったとある。これは本当だったかもしれない。
聖武天皇は捕らえられ、興福寺の坊主達に脅迫される。そして、全国に国分寺をたて、寺院勢力の拠点を全国に設置する事を約束させられる。いわゆる公共事業である。大型箱物行政の始まりである。
国債を発行するわけではないから、天皇の天領から入ってくる税金をほとんどそれにつぎ込む事になる。
各地の国分寺は日本にやってきた突厥族の軍事基地であり、役所であり、かつ税務署でもあったのだろう。

そして最後に完全に天皇家が破綻するだろう陰謀が実行された。奈良の大仏様である。この国家予算に匹敵する大公共事業、現在で言うならスーパーコンピューターの開発どころではない、イラクの戦費に匹敵するほどの巨額の予算を必要としたのである。

結局、このことが奈良王朝の致命傷だった。その経費を肩代わりできたのは百済亡命王朝だけだった。
出羽国にいたとされる百済王敬福から黄金がもたらされ聖武天皇もやれやれ・・・。いわば、百済王は現在のロスチャイルドか鉄道王、ハリマンみたいなものか?

金を出してもらうために次の天皇は百済王の家系に移り、以後今日までその家系が万世一系になるのである。そののち、奈良の即ち南都仏経と、比叡山を中心とする北都仏経が争いを起こし、秦氏が本拠を明け渡したため平安へ遷都することになる。

来年が奈良遷都1300年というのは北魏拓跋族が奈良で王朝を開いた年なのである。この意味がわかる人はわかるのである。
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by sibanokuni | 2009-12-04 06:10 | マヨちゃんの古代史
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