検証、「お種理論 元寇篇」 一回目
実を言うと、ここ二、三日鎌倉幕府を研究している。いわゆるお種理論の裏づけをするためである。北条家は源実朝を殺した後、皇室に対し将軍職としての皇族を派遣してくれるように要請する。ところが時の後鳥羽上皇はそれに腹をたて、討幕運動を開始し、隠岐へ流されるという失態を演じた。
問題は、なぜ北条氏は自らが将軍にならなかったのかでしょ? 言うまでもない、「お種度」がないからである。平家でも清盛は内大臣まで出世しているが、源頼朝は征夷大将軍である。ようは源氏と平家では格が違うのだ。では、北条はといえば、早い話、平家の郎党のひとつではあるが、韓半島南部から日本へ渡来した多羅国(たいらこく)の中の一部族で、四国から太平洋岸へ流れ、伊豆から千葉にかけて定住した海流民族のひとつだったのだろう。 もちろん部族としては平家の陪臣に当たるが、平家の持つお種度に比べれば取るに足らない存在だったのである。平家一門はおそらくは安羅国王家の血筋を引いていたのであろう、一応皇室の片隅にひざまずく程度だったのである。 私の考えでは平氏は応神天皇に時代に渡来し、太平洋側に広く分布した部族で、飛鳥に都を置き、聖武天皇の皇后、光明子は同族だとみている。 さすがの北条家も他家の手前、裏支配としての執権職に甘んじ、権威として皇室からの将軍派遣を後鳥羽上皇へ願い出たのである。 本来、お種度の高い源氏の棟梁の子孫である実朝を殺害する事は許されないのだが、北条氏との血縁でお種度が下がり、重要性はなくなっていたのだろう。 まず、鎌倉時代のポイントとして将軍を下すよう要請して上皇が怒った事を覚えて欲しい。 北条政子は今でいう肉食系女子だったのだろう。自分の主家である平家を裏切り、将軍になれるお種を切望したのである。ただし、あまりに出来が悪い息子に絶望し、失敗作として自ら抹殺したのである。 天皇家としては、鎌倉幕府に派遣するのはもともと源氏である九条家で十分と考え、藤原家の格式で名前ばかりの将軍を派遣した。それが1246年、幕府内で反乱が起こった。調べると将軍が陰謀をめぐらしたことがわかった。そこで北条時頼は将軍を返品し、新しく皇族の将軍を求める。そして宗尊親王が鎌倉へ来るのである。1252年のことである。 この皇族は北条得宗家の後継、時宗をかわいがったと伝えられる。時宗の名は親王から一文字もらったものである。 さて、1257年、高麗がモンゴルに降伏しモンゴルの属国となり、1260年、日蓮が立正安国論を北条幕府に提出し、同年、フビライは大ハーンとして即位する。 中国の宋が正式に滅びるのはもう少し後であるが、実質的に滅びていたのである。 日本の歴史を日本だけで考えてはいけない。大陸情勢は急変しているのである。日本だけが何の影響も受けないはずはないのである。日本で当時活躍していた念仏宗はほとんどが宋から派遣されていた僧侶で、日蓮はその念仏宗を捨てなければ日本は滅ぶと叫んでいた。 ちょうどロシアが赤色革命で倒れた時、日本も共産主義に変わらないと日本は侵略されると考えたと同じようなものであろう。 さて、いよいよいわゆる元寇が起きるのだが、もう少し調べてからにしましょう。
by sibanokuni
| 2009-12-20 07:19
| マヨちゃんの古代史
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