対馬海峡は大変だった。
姫さまから白村江の戦いの話が出たけれど、その話の前に、神功皇后伝説について一言述べておかなければならない。戦前教育ではこの神功皇后が三韓を征伐したと教えられているようである。しかしながら日本書紀の記述を信じるならばこれは3世紀の話になる。7世紀の日本・百済連合軍対、唐・新羅の海戦ですら私は疑っているのに、3世紀に九州から海を渡り、三韓と戦争したという史実を私は信じることは出来ない。具体的な証拠を求めることは気の毒だが、古代において対馬海峡を簡単に渡れたとは到底考えられないのである。
遣唐使は最初のころは北路を取り、一番ポピュラーなのは遼東半島経由である。ただし、この先端、いわゆる旅順の勢力によっては韓半島南部を海岸沿いに進み、最終的に黄海を横断する事になる。これはやや危険で、何度かの遭難も記録されるところである。 しかしそれ以上に危険なのは南路であり、有名な鑑真和尚はその航路を取り、大変な苦労をしたのである。 聖武天皇の勅命による栄叡と普照の要請を聞いた鑑真は、彼らの要請をすぐに承諾し、弟子達の中に日本へ渡ってくれる者がいないか問いかけたが、日本への航海は危険極まりないとの理由で、希望者は1人も現れなかった。そこで最終的に鑑真自らが日本へ行くことを決意し、それを聞いた弟子21名も随行を名乗り出た。その後、一行は日本への渡海を5回にわたり試みたが、ことごとく失敗したとある。(WIKI) さらに、「753年に遣唐使が帰日する際、遣唐大使の藤原清河は鑑真の同乗を拒否した。それを聞いた副使の大伴古麻呂は密かに鑑真を乗船させた。11月17日に遣唐使船が出航、ほどなくして暴風が襲い、清河の大使船は南方まで漂流したが、古麻呂の副使船は持ちこたえ、12月20日に薩摩坊津に無事到着、実に10年余の歳月を経て仏舎利を携えた鑑真は、宿願の渡日を果たすことができた。」 (時代は孝謙天皇になっており、聖武天皇の遺品が正倉院に収められたころである。) つまり、波の穏やかな日本海と違い、外海は8世紀になっても大変な困難を伴ったのである。 簡単に三韓征伐であるとか、百済を救済するために出兵するなど少なくとも私には信じられないことである。 白村江では400艘の船が沈んだといわれるが、できるものなら海底を調査し、遺骨でも引き上げた暁には事実と認めようではないか。 長々と書いてきたが、私の研究したいことは、日本と新羅、そして唐、渤海の関係であり、使節のやり取りからそれらの国の支配部族が浮き上がってくるのである。 いうまでもないが、神功皇后の話は倭の国が韓半島内にあったころの史実を歴史書ごと日本史の中に入れてしまったため、書紀の編纂者は大変に苦労したことだろう。 いずれにしても聖武天皇の時代、唐と渤海そして日本は友好関係にあり、新羅だけが敵対していた事になる。つまり、奈良時代の日本は鮮卑系であり、新羅は淵蓋蘇文の残党である突厥族が支配していたと考えるのである。この後、日本は平安時代に向かって支配層が変わっていくのだろう。
by sibanokuni
| 2010-01-12 09:17
| マヨちゃんの古代史
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