シバちゃんのため息

足利尊氏は藤原氏のお種?

「謎の丹波路」という本を読んでいるが、この丹波という地域の奥深さは底知れない。やはり京都と山陰を結ぶ街道でもあるし、大陸との街道でもあったようで、古代から現代に至るまでいわゆる要所だったのである。

恥ずかしながら、一番驚いたのは足利尊氏であり、もうひとつは春日局だ。いずれも都市伝説?の域をでないから、事実として考えると足元をすくわれる。あくまでうわさ程度の扱いにせざるをえないが・・・。

まず、国鉄梅迫駅から1km手前に安国寺町がある。そこに景徳山安国寺という寺があり、元は光福寺といって足利尊氏の母清子の里、上杉家の氏寺だったようだと書いている。
この参道には「尊氏産湯の井戸」という怪しげなものがあり、尊氏の母・上杉清子は、足利貞氏の嫁入りしたが、子供が生まれず、寺内の地蔵仏に祈って妊娠し、ここで出産したのだという。まあ、信じる必要はない。
父、貞氏は下野国(しもつけ)足利庄の住人である。清子は上杉氏の始祖、上杉重能の孫。しかも勧修寺流の藤原清房(内大臣)の次男。建長4年(1252)、宗尊親王が六代将軍として鎌倉へ下向するときにお供をしたという。(上記「謎の丹波路」より引用)

この鎌倉へ下向するさい、丹波上杉荘を賜ったというからこの界隈が藤原氏の荘園だったことになる。
この丹波と尊氏との関わりはもう少し時間をいただくとして、やはり、尊氏の正体を知るためにもう少し突っ込む必要がある。

まず、藤原勧修寺流とは、WIKIから「坊城(名家/藤原氏北家勧修寺流)]
藤原北家勧修寺流。鎌倉期に中納言・吉田経俊の子・俊定が坊城を号した。俗に小川坊城とも称される。記録と装束を家業とする名家家格を有する公家。戦国末期に一時期中絶したが、後に勧修寺晴豊の三男・俊昌が入って再興された。明治期には貴族院議員、陸軍少将、山形県知事などを務めた俊章に伯爵が授けられた。」とあるから、北家のなかではやや下のほうかな・・・。

さらに、藤原清房を調べよう。やはりWIKIから、「藤原 清房(ふじわら の きよふさ、生没年未詳)は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家、廷臣。藤原房前を祖とする藤原北家の一門の勧修寺流の藤原盛憲を父とする。勧修寺清房。正五位下、蔵人、出羽守。
祖父顕憲の養子としてその家を継ぐという。父盛憲、叔父経憲はともに保元の乱で流罪となり、一時一家は没落するが、清房は従姉妹の在子が入内した後鳥羽天皇に近侍し家運の回復に努める。しかし、承久3年(1221年)の承久の乱の結果、後鳥羽上皇が隠岐国へ流罪となると、清房もこれに従い、出家の上隠岐へと下った。
次男の重房は丹波国何鹿郡上杉庄(京都府綾部市上杉町周辺)を領して上杉重房となり、征夷大将軍の宗尊親王と共に関東の鎌倉へ下ることになる。この重房が室町時代に関東管領・大名などを出す上杉氏の祖である。」

結局尊氏というのは平家を偽称する北条家の有力御家人でありながら、極めて源氏色の強い「お種」を持っていたのかもしれない。つまり、ひそかに天皇家から密命を受ける立場にあったようである。

南北朝の問題はそんなに単純じゃないから、もう少し研究が必要だ。今日はただ丹波と尊氏の間に因縁があることだけを書き残しておこう。

それからここからが重要。
この安国寺というのは有名な天竜寺の夢窓疎石の開山であり、彼は時の将軍、足利尊氏をそそのかし全国に60もの安国寺を作り、禅宗を国教化しようとたくらんだようである。以前、戦国時代が宗教戦争だったと述べたが、北条氏の曹洞宗、この足利氏の臨済宗が意外や政権の存続に関わっていると考える歴史家は少ない。
やはり、日本において問題となるのは宗教の教えそのものではなく、誰が持ち込んだかが重要になるのである。残念ながら、宗教と歴史を私のように考える人は少ないようである。それでは日本の歴史はわかるまい。
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by sibanokuni | 2010-01-15 06:29 | マヨちゃんの古代史
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