禅宗はいつから発展したか?
たまには宗教から歴史を考えて見ます。
まず、禅宗の発達した過程を知らねば・・・・ここからちょっと拝借しましょう。 「日本においては、嵯峨天皇の代に、懐譲派の義空が初めて禅宗を日本に伝えたが、当時、伝教大師の日本天台宗が広く流布していたため、受け入れられず空しく帰国した。その後、鎌倉時代の僧・栄西(ようさい・1141年~1215年)が、中国(宋)に渡って禅宗を学び、建久二年(1191年)、日本に臨済宗を伝えたのが始まりとなった。 もともと栄西は、十四歳にして比叡山に登って天台宗を学び、中国の天台山にまで足を伸ばしているが、当時、すでに真言密教を取り入れ邪教化していた天台宗では満足できなかったのか、帰国後、疑問を起こして禅宗を学びたいと欲した。そして、再び宋に渡り、臨済宗の万年寺に身を寄せること数年、臨済宗の法義を相承して帰国したのである。 栄西は初めは九州・博多を中心に布教し、後に京都へ進出しようとしたが、比叡山の禅宗停止の訴えにより、建久五年、停止を命ぜられた。栄西は禅宗擁護のために、さまざまに活動し、他宗からの圧力を逃れて鎌倉へ向かった。鎌倉では、北条政子の寺である寿福寺の住持となり、更に建仁二年(1202年)には、源頼家が京に建仁寺を建てたので、住持として迎えられている。だが栄西は、建仁寺を比叡山の末寺とし、天台・真言・禅を兼修する寺として、自らの保身の手段としたのである。その他、栄西は名誉欲も強く、大師号を得るために賄賂をばらまいて嘲笑されるなど、栄西の伝えた禅宗は、自己保身と名聞名利を根底としたためもあってか、思想的にも純粋な禅宗ではなかった。 この、栄西によって伝えられた臨済宗に対し、今日の曹洞宗を日本に開いたのは道元(1200年~1253年)である。 道元は幼時に父母を失い、十三歳で比叡山に登ったが、後になって、当時名を高くしていた栄西の門をくぐった。栄西の死後、みずから入宋した道元は、座禅修行中に豁然と悟りを開いたと称し、安貞(あんじょう)元年(1227年)帰国して曹洞宗を弘め、現在の総本山となっている永平寺を開創した。道元は、自己の悟りを仏からの正伝(しょうでん)の仏法と信じ、仏教全体を禅に統合しようという考えを懐いていたようである。また、前の臨済宗が貴族武士階級に弘まったのに対し、曹洞宗は庶民の間に浸透していった。」 引用が長くて申し訳ない。要約してある文章をさらに要約するのが難しいからだ。 日本の歴史を学ぶ上で、一番問題なのは、寺院を善意の機関だという前提で書いている事であり、重大な錯誤というか、真実の隠蔽をしている。いつの時代でも寺院は権力者であり、搾取する側であり、庶民を苦しめていたはずである。 私の最近のマヨ理論でも日本の天皇は最高支配者である。しかし奈良時代は南都仏経に、平安時代は比叡山に権力を支配され、軍事力を持たない朝廷は絶えず彼らと対決せざるを得なかったのである。そこで朝廷は寺院勢力の軍事力に対抗するため、源氏や平家にお種をばら撒き武士勢力に政治を任せたのである。 つまり、在来の仏経に対抗するための幕府にとって、精神的なバックボーンを禅宗に求めざるを得なかったと考えればいいのだろう。このような視点で宗教を考える人は少ないので研究はなかなか進まない。 今日は日曜日なので韓流ドラマ、「王建」を見なきゃならないのでこれぐらいで失礼。
by sibanokuni
| 2010-01-17 07:05
| マヨちゃんの古代史
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