シバちゃんのため息

マヨ理論にひとつ追加。

「謎の丹波路」の一番最初のところ、京都から丹波へ向かう入り口、老ノ坂峠あたりの記事を読み返していた。そこに「首塚大明神」と書かれた祠があるという記事が気になりそこを少し調べることにした。
この塚が光仁天皇の夫人で例の桓武天皇の母、高野新笠ではないかといわれていたそうである。しかし、彼女の墓は「大枝稜」がちゃんとあるから・・・云々。「え?大枝稜」、なんだやっぱり大エ山というのは「大枝」が本来の言い方で、老ノ坂は「おおえのさか」なんだろうな。つまり但馬の手前の大江山は後付けで、酒呑童子が出没したという大江は亀岡が本場だったのである。wikの記事はどうやら我々を欺く意図が見えるな、危ない危ない。

まあ、それはそれとして、高野新笠をネットでググルとすごいですな、天皇陛下のお言葉だった、「韓半島にゆかりを」発言を否定する記事がいっぱい。
教えてgooの記事、高野新笠はなぜ皇后になれなかったか?の回答者などはどう見てもプロですよ。その筋の専門家が必死で向かって来れば我々素人ははだしで逃げ出すしかない。さすがにその知識の深さは恐れ入るしかない。でも、結論ありき・・・ですな。

まあ、なぜ皇后になれなかったのか?なんて簡単なのだ。つまりは藤原家ではないからである。それだけのことだ。
そんなことは無視して、私としては高野の母が土師真妹(はじのまいも)で、夫は和乙継(やまとのおとつぐ)といわれた方を重要視したい。
百済の武寧王の子孫だとすれば彼の在位は432-532年であり、桓武の生れ年は732年。だいぶん年月がたっている。この間の日本書紀の歴史はあまり当てにならない。ただし、天皇陛下の認めた史実なのだから和乙継が百済の帰化人なのだろう。和氏は王仁(わに)氏である。つまり応神天皇の一族である。5世紀当時の韓半島は高句麗全盛時代で、好太王とその息子、長寿王が半島一帯を制覇したころである。河内に大規模な古墳が作られた時代だから、応神天皇は半島から追い出され、河内に王朝を作り、その後大和朝廷に亡ぼされたのである。その王族が王仁として残ったのだろう。

それはともかくとして、栗原氏は「歴史の闇を禊祓う」の中で、平成天皇のお言葉に関し、「天皇家に朝鮮の血が入っているとのたまう輩がいるが、何も知らない者だ・・云々」、とある。(どこに書いてあったか、どうしても探せない、またあとで探します。しかし、間違いなく朝鮮の血がながれていることを強く否定している。)

つまり、続日本紀、平成天皇のお言葉、そして栗原氏の見解、これらの三者が誰もうそを言っていないとすると、従来の歴史家たちは大いに悩むことになるだろう。
即ち、続紀は「高野新笠は百済、武寧王の子孫であり、桓武の生母である。」と書いている、天皇は「そのように書かれていることで韓国にゆかりを感じる。」、ところが栗原氏は「朝鮮の血が混じっているなどとんでもない」と述べる。さあ、ところがマヨ理論からすれば、いっさい矛盾することはない。
答えは、「武寧王の百済は朝鮮半島にはなかった」とするのである。そうすれば何も悩むことはない。私はいままで百済のあった場所を特定していない。なぜなら百済は移動しているからだ。少なくとも遼西にいたことも有るし、遼東にも、遼東半島にもいたことがある。したがって、百済国は存在しても百済地方はないのである。

武寧王時代の百済はおそらく遼東半島に存在したはずである。仮にそうだとすれば武寧王は朝鮮人ではなく満州人である。韓国人が百済を自分たちの祖先だと思いこむのは自由である、天皇は百済人の血が流れているといっただけで、韓国人または朝鮮人の血が入っているとは言っていない。続紀は正史である以上うそは書けない。ただ、本当の事も書かないだけである。天皇も栗原さんもうそを言ってはいけないが、本当の事を言う必要はないのである。

話がそれてしまった。本当は和邇氏を研究するつもりだったのに・・・・それは後日にしましょう。

栗原さんを重要視するのは彼が皇室のインナーサークルであり、我々の知らないことをたくさん知っているからである。しかし、うそはつかない代わりに真実は明らかにしない。要は、行間を読み取れといっている。
私は栗原氏が百済がどこに存在したのかを知っていると思っている。だからこそ自信をもって、「天皇家に朝鮮人の血は流れていない。」といえるのだ。
このことで、新たなマヨ理論をひとつ追加できる、即ち、「百済は韓半島にはなかった」のである。もう少し言うなら当時から百済王には高貴な血が流れていたのだろう。だから日本へやってきたソグド人は争って百済王と血縁を結ぼうとしたのだ。奈良の石上神社の有名な七支刀に「百済の庶子は生まれつき良い子なので倭王にする」とある。つまり、庶子が倭王になるのだから百済王の権威たるや、想像を超えるであろう。ところで、誰が七支刀を送ったのか?これは北燕の慕容氏であろう。
ついでに言っておかなければならないのは、後百済というのがある。これはまさに韓半島南部にほんの短い期間に出来た王朝だが、国の名前はどう付けようが勝手だが、それを古代の百済に結びつけるのはいい迷惑である。多くの人が勘違いしてしまう。
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by sibanokuni | 2010-01-19 06:19 | マヨちゃんの古代史
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