途中経過ですが・・・・
一言お断りしておきたい。現在、毎日加治木さんの本を読んでいる、何度も読み、完全に納得したいと思っている。しかし、あくまでも私には私のマヨ理論があり、それに固執するつもりもないが、全部捨てるつもりもない。
要は、すばらしいこの加治木説を読みこなした上で、なんらかのほころびを見つけ、それを追求するなかで、さらに日本史を解明したいのである。卑弥呼が九州にいて、さらには南方から流れてきたとするのは私にとってはキリスト教からイスラム教へ改宗するほどの大転換なのである。しかし、改宗したふりをしてみようというのである。 ただし、天照様が宮古島から来たというのは実に楽しい話で、それなりの遺跡もあることだし、これは当分日本史の前提として考えても良いと思っている。 卑弥呼が九州にいて、それが天照さんと同体だというと、いきなり日本史の年代は極めて浅い歴史になる。かといって、古代から列島にはたくさんの人間が生息していたのだから、単に統一した政府がなかっただけでそれほど悩む必要はない。でも、同体かと言うと・・・やや寂しいな。 加治木氏の歴史は西日本の歴史書であり、日本書紀、古事記の世界である。この世界にウラル・アルタイ語が入ってきた痕跡は認められない。つまり、それは卑弥呼の時代よりはるかに昔の出来事である。なぜなら南方からいろいろな人々が移住してこようが土着していた言語の根本を覆すことはなかったのであるから。 日本が成立したのは天智天皇の頃、670年としているが、そのころ近畿地方の住民は毛人と表現され、ヤオ人とか、イナ人とも言われる。彼らは逃げる必要もないため、言われるままに従ったのだろう。しかし、倭国支配層や大阪・百済国人は必死になって全国へ散ったのである。先日も言ったように尾張はアスカ人の王族が逃げ込んだ地域であり、さらに中央線に乗って、木曽や信州へ逃れたのである。つまり、善光寺とは百済王が逃げ込んだ亡命地だったのである。さらに、仁徳天皇、雄略天皇ら倭の五王、その他、姓氏録に載っていない王家の子孫達はそれぞれ同族の住む地域に逃れ再起を期したのであろう。 しかし、持統天皇がどんでん返しを演じ、日本は再び倭国を再建することになるが、これがおそらく百済朝だったのだろう。つまり、全国に散った部族のうち、百済関係者は勝ち組になり、倭国はいまだ負け組だったようだ。問題はこのあとだな・・・・、平城京の頃には倭国が相当復活したように思えるから・・・。 やはり、持統天皇が天武政権、つまり「ヤマト」を転覆させるには、それなりに旧倭国の軍勢の応援が必要だっただろう。つまり、男性天皇である倭国にヤマトを撃たせたのだ。 うーん、むずかしいな・・・。やはり、キーは光明皇后にある。安宿姫だ。これこそ女大王だぞ。 昨日の話の続きになるが、男性天皇は百済系に受け継ぎられ、祭祀専門の女性天皇はアスカ系で受け告げられたという事かな。とりあえず、今日はそうしておきましょう。
by sibanokuni
| 2010-02-18 09:18
| マヨちゃんの古代史
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