シバちゃんのため息

唐の則天武后は天武の皇后だった?

休みます・・・、と言ったものの、やはり古代史の研究はやらなくっちゃ・・・ってことで、少しだけ記事を書きました。つまり、加治木説でどうしても納得いかないところを書き出すという作業です。
今回はその一回目かな・・・。
題して「則天武后は天武の皇后だった?」

「天智天皇は倭国を乗っ取った後しばらくは斉明天皇を義母として利用し、最終的に九州の大宰府、いわゆる香椎の宮で処刑した。それまでは天智天皇のいわゆる「称制」期で、その間は斉明女帝が存在していた。称制というのは当時の唐の言葉で、ロボットの思いのままに操り、ロボットの同類を見方とする巧妙な詐術である。」
これは「謎の天孫降臨・・・」のp138に書かれていることで、おそらくこれは正しいものと思われる。そして天智が即位したのが660年なのである。
問題は唐のほうである。加治木氏は「唐書」に何の疑問を持たないようであるが、早い話、李世民の死後、則天武后が権力を握ったことになっていて、少なくてもそれを称制という以上、誰かが後ろにいなければならないのではないのか?
則天は女帝でありながら絶対的な権力を握り、国名を周に変更しているではないか。少なくとも中国史書によれば称制ではなかったことになる。
つまり、歴史書では彼女が君臨したように見せているが、真実は称制であり、彼女の後ろに誰かいたと私は見ている。誰か?
則天武后という文字をよく見てほしい。「則・天武・皇后」と書いてあるではないか。つまり、天智天皇が倭国を統一し日本国を作った。しかしその天智朝をひっくり返したのは天武である。早い話、天武は日本と中国を両方支配したのだ。
日本の天武と唐の則天武后の亭主が同一人物だとするなら、それが可能な人物といえば淵蓋蘇文が一番ふさわしい。

加治木さんによれば、淵=泉蓋蘇文は高句麗王・建武を殺し、自分の傀儡を高句麗王に据えたのである。つまり、淵蓋蘇文はその当時倭国連邦の王だったことがわかる。加治木説とはまったく異なってくるが、私は唐書に真実が書かれているとは思っていない。中国の史書は自分に関係のないことは客観的に書き残す。しかし、自分の国にとって屈辱の歴史になることはなるべく書かない。幸い、匈奴たちは金さえもらえば歴史に何を書かれようとあまり興味を持たない。その証拠に漢の時代、匈奴に屈服し自分の娘を匈奴へ差し出し朝貢をしていたことをいっさい書いていない。つまり、淵蓋蘇文は唐を乗っ取りさらに日本を支配下においた後死んだのである。

天武は天智の皇后の娘を娶り、なおかつ唐の皇帝の王妃、武皇后をも娶ったと私は考える。このようなことがもしあったとするなら唐の史書に書かれるはずはない。
天武天皇、つまり淵蓋蘇文が死に、日本は持統天皇が引き継ぎ、唐は則天武后が引き継いだのである。
日本の歴史書の真実を暴くことも必要だが、中国の歴史書も正しくないことは言うまでもないことである。
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by sibanokuni | 2010-03-01 09:20
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