次にしらべることは・・・
「タカス」を調べていて、知らないうちに水戸家を調べることになり、そしたら徳川家には徳川慶喜家と徳川宗家があることがわかった。一般的に見るなら仲がいいとは思われない。また、お万の方の出自はなんと桓武平氏の血流のようであることもわかった。これも意外であった。
徳川は過去の研究で、源氏もしくは新田系だと考えている。しかし、家康はそれを承知の上で平氏系の家系に水戸家を与えたのだ。そして、徳川家と朝廷が争うことがあったら水戸家は迷うことなく朝廷のために働けと遺言したという。これは不思議なことである。 徳川家の血流は何度も変わっている。家康の血は家光の頃に入れ替わり、そして吉宗の時、紀州へ移り、それから何度も移った結果、最後は水戸家で終わった。細かいことは私にはわからない。ただ、客観的に見るなら、紀州には恨みが残ったのではないかという事である。 秩父宮妃や高松宮妃はいずれも水戸人脈であり、慶喜系と言えよう。私の推論では水戸家はお庭番の役割を担っており、幕末の外圧の中、大政奉還をするために動き出したように見える。もちろん八百長である。それに抵抗したのが井伊大老だろう。調べればわかることだが、松平忠固や水野忠央(紀州藩付家老)ら南紀派の政治工作により 安政5年(1858年)4月23日、直弼は江戸幕府の大老に就任したのである。 さあ、ここに大きな対立軸が見出せる。私が探しているのはこのような対立軸で、日本の支配者層がどのように分断されたのかを調べることである。源氏や平家、北と南、仏教と神道、紀州と水戸・・・・いくらでもでてくる。 しかし、その中で亡びる寸前、白い布に身を託し、きわどく生き残り、最後に天下を握った「お万」の血はもう少し調べていかねばなるまい。 お万が家康に見初められるあたりの事情を知りたいな。他にもたくさん調べることがある。わかるといいのだが・・・。 ところで、よくよく考えてみると、紀州藩のそもそも始まりは家康の10男頼宣で、よく考えたらこれはお万の子供じゃん。つまり、系図が正しいとすればほぼ全部お万から出てる?えー?その割にはあまり知られてないな。不思議だ・・・・・ぶつぶつぶつ・・・・。
by sibanokuni
| 2010-04-01 06:31
| マヨちゃんの古代史
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