シバちゃんのため息

秀吉の息子が天皇に?

さて、昨日の小説を書くために一週間ほど下調べが必要だった。本当に時代小説を書く作家の人たちは大変なのだろうと感心する。しかし、私の小説はエッセンスであり、肉付けをすることでいくらでも量を増やす事が出来るのである。例えば天海と家康が江戸を出発し、熱海に行くまでで5枚にしろといわれれば、それはもちろん可能である。単に私がずぼらな事と、謎解きが主であるため、読者をじらさないために単純化してあるのと、単に私がせっかちなだけである。

昨日、秀吉が皇位継承に口を出したと書いたが(これは私の憶測であります。)、同じ様に信長も重大なミスを犯している。いくつかの理由で朝廷が信長を暗殺したと私は考えているが、ひとつはやはり秀吉と同じ様に皇位継承に干渉したことと思われる。

それは正親町天皇が在位しているにもかかわらずその子、誠仁親王を「今上皇帝」として、信長もそして家中の者にも徹底したのである。もちろん信長が鉄砲を融通してもらうため、キリシタンと親しく付き合っていることも許しがたい事だった。しかし、やはり信長は朝廷の力を侮っていたのである。天皇は自分のお庭番である光秀、家康と打ち合わせをし、丹波衆を中心とする光秀に暗殺を命じたのである。結局信長は足利幕府をつぶした時点で用済みだったという事だ。

秀吉は鉢屋というサンカの親分であり、毛利とは通じていたのである。おそらく信長の下にスパイとして送り込まれていたやはりサンカの千利休から、朝廷の意向の連絡は受けていたはずである。

秀吉が天下を取り、その後、後陽成天皇が即位する。後陽成天皇は秀吉の子供(養子といわれるが・・・)である智仁親王のために宮家を創設し(八条宮(桂宮)家や清華の広幡家となる)、順調に行けば彼が次の天皇になった可能性が大きいのである。
wikiによれば、そこのところを「関ヶ原の戦い直後、後陽成天皇は当初皇位継承者とされていた実子の良仁親王を廃して弟に当たる智仁親王に皇位を譲ろうと考えた。そこで、時の天下人である徳川家康に譲位の旨を打診したが、家康は智仁親王が秀吉の猶子であることから反対した。そして結局、皇位は慶長16年(1611年)に良仁親王の弟の政仁親王(後水尾天皇)が継ぐこととなったのである。」となっているが、じつは家康は天皇のお庭番だったからこれはあり得ない話で、真実は後陽成は皇位を智仁親王に譲りたくないから豊臣政権を終らせたと考えるのである。ただし、秀吉の子供が天皇になる資格はあったのではないか、あるいは関白になれた以上、正史に伝えられている秀吉の出自が間違っていると考えるのは当然である。つまり、秀吉の実母、あるいは実父がそれなりの人だったと私は考えるのである。

天皇家が当時、まったく無力で貧乏だったと正史は伝えているが、それを真に受けてはいけない。太古から現在に到るまで、天皇家は影のお庭番を使って自由自在に武家を動かし、影の実力者として君臨していたのである。
このような歴史観を持つ人は少ないだろうけど、万世一系という以上、それらに対抗する勢力を排除してきた実力があったのである。
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by sibanokuni | 2010-04-03 09:52 | マヨちゃんの古代史
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