シバちゃんのため息

2009年 03月 22日 ( 3 )

マヨちゃん、誰も読まないよ?

「ネエー、マヨちゃん」
「なんだい、シバちゃん」、「こんなめちゃめちゃな古代史、誰も読んでくれないにゃー」
「めちゃめちゃとはなんだ。人が一生懸命に考えたのに・・・」
「でも今まで教科書で習った歴史と全然違うじゃん。」

「うるさいにゃー、ジャなかった。うるさいぞー。今までの歴史は全部でたらめで、マヨの歴史は全部が正しくなくても正しい部分が多いの。猫のお前になにがわかる。」
「マヨちゃん、ひどいにゃー、不親切なご主人様だにゃ。何がそんなにまちがってるの?」
「まず伊勢神宮だな。どうして天皇の始祖を祀っているっていうのに天皇が参拝したってあんまり聞いた事ないだろ。」「うん、そうだにゃ、明治神宮にはよく行くみたいだね。」
「それに、お墓だ。天皇のお墓にはいくつかの種類があるだろ、前方後円墳もあれば円墳もある、しかし基本的に天皇は仏教徒なんだ。おかしいだろ?神様なんだぜ?先祖代々そう簡単に墓の埋葬法は変えないだろうし、宗教だって変えないよね。」
「そうだにゃあ、おかしいよね。でも、そんなこと研究してなんになるの?誰もきいてくれないよ」
「だから趣味だっていってるだろ。お前みたいに一日寝てるわけにはいかないんだよ。」
「マヨちゃん、いくらなんでもいいすぎだよ。僕だって研究したいんだよ。」
「ホー、言うじゃん。なに研究するんだ?」
「ねずみの生態とか・・・、かつお節の美味しい食べ方だとか・・・・・」
「なんだ、食べる事ばっかじゃないか。」
「えーん、またいじめる・・・・、ぶつぶつ・・・・」
こうしてシバちゃはまたため息をつくのでした。
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by sibanokuni | 2009-03-22 19:10 | シバちゃんのため息

マヨの古代史講座三回目(最終回)

今日のテーマ、神武天皇はだれなの?ということなので、神武天皇の正体が明らかにされると期待された方、まことに申し訳ない。私は、実は真剣にそのテーマに没頭した事がない。つまり、皆さんの知りたがっている神武の正体はお伝えできません。詐欺だ?そんなオバマな・・・・。
マヨの古代史はシンプル構造なのです。あまり細かい事気にしないで聞いてください。
平成天皇がいみじくもおっしゃった、「桓武天皇の母方に百済のゆかりを・・・・」というゆかり発言は国家元首としての一言だけに非常に大きい。
さらに、何度も取り上げているが、渤海からの使者が聖武天皇に対し、国書の中で「わが国と天皇さんとは親子の関係ではありませんか。・・・」と述べた件である。
私は気が早いから、下手に日本史を勉強するよりも朝鮮史の中から日本の天皇の祖先を探したほうが手っ取り早いと考えたのです。
まずは百済から調べると、百済の始祖は朱蒙であり、朱蒙は高句麗の始祖でもある、この朱蒙は伝説によれば夫余を追われ東へ逃げ、高句麗を建国している。史書を読む限り、朱蒙の出自は太陽の光になる。つまり、出自不明である。日本の始祖が百済、高句麗から出ていると考えると、朱蒙以前にさかのぼることはできない。つまり、神武が朱蒙であると考えるのは実に合理的な判断なのである。
朱蒙がいつの時代の人間なのかは後に回し、朝鮮には檀君神話というのがあります。檀というのは「まゆみ」であり、弓の材料の木を現します。朱蒙が弓の名手であったという伝説と、神武が東征したときに片手に弓を持った勇姿が見事に重なり、まさに朱蒙が檀君だったと私は考えます。
さて、中国史書に180年ごろ鮮卑族の檀石塊が遼東を荒らし、倭人を捕まえて漁業に従事させたと記録されています。これらの出来事を総合すると、ひとつの仮説が浮かんできます。
失われたイスラエル部族であるダン族はシルクロードを経て遼東へやってきた。彼等は東胡の一員であったが、匈奴から追い立てられ遂に夫余の地で活躍の場所を見つけた。夫余王の王妃、河伯の女に子供を産ませ、その子供を高句麗王にする。つまり、檀石塊が檀君で、韓流ドラマにでてきたヘモス将軍に他ならない。
立派な歴史なら良いけど、現実の歴史はそんなものだ。武力で攻め込んできた檀君に対し、夫余王は大事な
王妃を差し出し服従した。韓流ドラマにはクムワ王とヘモス将軍として登場している。彼は出来た子供を高句麗の始祖にしたのだ。つまりどう考えても高句麗の建国は西暦200年ごろにならざるをえない.当然ながら神武の即位も同じ事である。
さて、公孫氏が滅び遼東が無法地帯になったのは240年ごろである、(大雑把ですいません)、そこへ高句麗の東川王が進出する。これが日本で言う崇神天皇であろう。
鹿島昇氏をはじめ、百済王家に日本の天皇家の祖先を求めた研究書は多いが、私はそれらを意図的な高句麗隠しに見えてくるのだ。なぜならそうしないと後で、大問題が発生するからである。
その問題というのが広開土王である。彼の活躍したのは400年ごろで、集安(現在中国領)にある有名な石碑には、その地域まで倭人が攻め入り高句麗軍が撃退したと記録されている。
石碑が捏造なら仕方がないいが、日本の歴史家達が説明に困るのも無理はない。日本書紀にはそのような出来事はどこにもないのだから。
私はこの広開土王が倭の五王の一人と考えている。彼の姓が安氏であるとは過去に何度も触れてきた。ただし、それはパルティア国、つまり安息国と考えてきたが、最近はソグド人の可能性も考えるようになって来た。それらは同じ事かもしれないが、いずれにせよ彼ら安氏が南韓の地に安羅国を建国し、さらに彼等が応神天皇として日本に渡来し、飛鳥の地に拠点をもったことはまず間違いのないことである。
彼ら安羅国の人々は応神天皇時代よりはるか前から敦賀に上陸し、海部氏として徐々に奈良方面まで勢力を伸ばし三輪王朝を開いていたと考える。そこへ同族の応神一派が侵略してきた。その時の鉢合わせが有名な神武と対面するウマシマデである。つまり、神武東征で書かれていたのは応神天皇の東征そのものだったのである。安羅人は伊勢で王国を作る事を認められ、持統天皇の時代までその地で勢力を保った。

さて、キリがないので、今日はこのぐらいにしておこう。私の説を理解していただいただろうか。私は日本の歴史の源流は高句麗とより近いと思っている。しかし、奈良時代末期、たまたま日本に亡命していた百済王家が傀儡の天皇になり、関わりの大きかった高句麗の歴史を抹殺する必要が出てきた。一回目の講座で述べたように、それらはすべて匈奴軍を率いてきたソグド人がやったことである。
平安時代に日本の国体が完成した。表の権威は傀儡百済王家であり、世襲する。そしてその婚礼家系として鮮卑族を藤原氏に偽装し、将来的にも身分は保証する。裏支配はソグド人が寺社の中で行う。旧支配者、伊勢神宮は天皇家の祭祀集団として身分は保証される。
私の数年間に及ぶ集大成が最後の国体の表現であります。今のところ仮説ですが、大きく変わることはないのではないか。藤原家、特に不比等が実在したかどうか、これこそが日本史最大の謎なのである。

さて、三回に分けて書きました。書きたい事はまだまだありますが、今後はまた個別に書いてゆくことにします。長い文章にお付き合いしていただき、感謝いたします。
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by sibanokuni | 2009-03-22 14:11 | マヨちゃんの古代史

古代史講座二回目(みんなうそで儲けてる)

おはようございます。マヨです。シバちゃんが寝ている隙に記事をアップしましょう。
今日は歴史講座の二回目です。司馬ちゃんが出てきますよ。
さて、歴史学会最高の儲けネタ、邪馬台国のおはなしです。
これまた長いので、ごめんね。読みたい人だけ読んで下さい。

マヨの歴史講座二回目

私が歴史に足を踏み込むきっかけは、多くの人がそうであったように、邪馬台国のロマンでした。世界的な陰謀の研究に嫌気を感じ、つまり世の中がいやになるような、そして大人たちが怪訝な顔をするような研究は止め、もっと楽しくなるような研究をしたいなと思ったのでした。それが真剣に研究を始めると、じぶんでも意外な方向へ行ってしまった。
ほとんどの研究書は、邪馬台国論争のスタートを魏志倭人伝の有名な航路の謎解きからはじめる。まあ、当然なのだろうけど、もちろん、私も皆さんと同じく地図を開きながら韓国南部から対馬へ、そして壱岐へ、さらには・・・・こうして皆さん罠にはまっていくのですね。この方法をとる限り、絶対に歴史学会の思う壺にはまる事になる。それではいけないのです。
そこへ行く前に、どうしても知っておくべき重要な事があるのです。
一番重要なことは、なぜ卑弥呼が魏王に朝貢する必要があったのか、なのです。

当時の魏王室の状況は、魏帝が病弱で後継者争いが始まりつつあった。その中で実力、人望ともナンバーワンだったのが司馬仲達で、有力者達は彼を中央から遠ざける意味も含め、当時燕王として自立していた遼東の公孫氏を征伐する将軍に司馬氏を派遣する事を決めた。司馬氏も同じく、中央にいて勢力争いに巻き込まれるよりは、魏内部で勢力争いをさせたほうが自分にとって都合が良いと考えていたのですね。
問題は公孫氏が勢力を持っていたのは遼東、即ち楽浪郡であった。現在の遼寧省、瀋陽あたりと考えられる。さらに、帯方郡と言うのは公孫氏が楽浪郡十八県の中から南側七県を独立させ新たに作った郡である。つまり、そこは鴨緑江と遼東に挟まれた遼東半島に他ならない。(この論証はなかなか大変なのだ。)
ほとんどの歴史書がその真実をねじ曲げ、間違った概念を押し付けている。つまり、私が主張するのは遼東半島には三韓が、つまり馬韓・辰韓・弁韓がいて、彼等はそこに設置された帯方郡の公孫氏に服従していたと考えられる。しかも魏志によれば、三韓はそれぞれ倭と接していると書かれているから、遼東半島の南部にも倭があったことになるのだ。晋書によれば、倭には東倭といわれるものもあり、こちらを現在の北朝鮮に比定するのが妥当だと思う。つまり、現在の北朝鮮こそ倭の本国そのものだったというのが私の意見であります。
北朝鮮問題がいっこうに解決しない根本的な原因がここにあるのでは・・・と私は思っています。当然ですが、今の平壌が首都だったでしょうね。
さて、司馬氏は公孫氏の遼東郡を滅ぼすために、幽州から母丘倹率いる大軍を進軍させ、、遼東半島に上陸させた水軍とで挟み撃ちにする戦略を立てた。これは後の隋や唐も高句麗討伐にまったく同じ攻略法を使っている。つまり、遼東を制圧するには遼東半島、つまり、日本軍があれほどの被害を受けながらもどうしても奪う必要があった、旅順、現在の大連を占領する事が絶対条件であった。もちろん、従来の歴史では帯方は南朝鮮になっており、根本的に間違っているのだが。仮にそうであるなら、公孫氏は最初から存続できないはずで、こんな簡単な理屈がどうしてわからないのだろう。
つまり、学説からすると、公孫氏の攻略と卑弥呼の朝貢は何ら関連性はない。つまり学説からすれば公孫氏は戦う前から包囲されている事になり、魏がわざわざ対馬海峡を越えて倭国へ使者を使わす意義は認められないし、ましてや遠い日本列島まで内乱の介入をするほどのゆとりがあったとは思えない。
卑弥呼が遣使のやり取りをしている真っ最中に魏王は死亡するし、公孫氏は滅ぼされている。
卑弥呼が帯方へ使いを出したのは237年6月で、その年の8月、公孫氏は滅びていることになっている。仮にこれが本当なら、ギリギリセーフなのだ。なにが?つまり、魏が公孫氏を討伐するのに卑弥呼が協力したという事実が残るのである。
しかし、晋書には「宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見、其後貢聘不絶。・・・・・」とあり、司馬氏が公孫氏を滅ぼした後に朝貢してきたと読める。(諸説あり、卑弥呼が公孫氏と読む人もある。私としてはどちらでも良い。)どちらが正しいかはやぶの中だが、私から言わせれば邪馬台国は内部で二つに分裂しており、魏への朝貢はギリギリの判断だったと思うのです。司馬氏が公孫氏を滅ぼすとすぐに魏帝は危篤に陥り、司馬氏はあわてて都へ急行する。その時点でもう彼には遼東情勢などどうでもよくなり、魏を簒奪する陰謀に突入してゆく。さらにその後、魏から晋への易姓革命が起こり、晋が滅び、北魏が中華を統一するまでの長い期間、韓半島と遼東は五胡十六国の乱に巻き込まれ、復元できない歴史時代を迎えるのである。
まさに、この時代こそ日本の歴史に関わる一番重要な期間なのだ。


要点は楽浪郡の位置の把握であり、倭国の本当の存在した位置である。私の説を元に中国史。朝鮮史を読まれるがいい、いかに従来の歴史が矛盾に満ち溢れているかわかるはずだ。
どれだけ日本中を探しても邪馬台国はでてくる事はない。邪馬壱国という表現があるというが、そんなことは枝葉の問題で、史書の編纂者が前史を否定できない場合の苦肉の策にすぎないのだ。
以前、邪馬台国、エジプト論というのがあるといったが、恐らくそれは正しい。つまり、陳寿は絶対に倭国がどこにあったのかわからないように魏志に記したのだ。なんのために?おそらく、その後卑弥呼が殺されているが、司馬氏が卑弥呼や三韓を裏切った事を隠すためだったのではないだろうか。
日本書紀には卑弥呼も邪馬台国も書かれていない。書記の編纂時、当たり前だが、魏志の内容は知っている。なのに、何もそれに触れなかったのは、当時の歴史家にとって邪馬台国は日本にはまったく関係のない地域の歴史だったと認識していたとしか思えない。ところが近代になって邪馬台国論争が銭になると分かり、学会はこの論争で非常に儲かったであろう。しかし、そのおかげで倭国の歴史が明らかになってくるというのは歴史の皮肉とでもいっておきましょうか。うそつきどもよ、くたばってしまえ。

さて、ここまでお読みいただいた方、ご苦労様でした。次回、第三回は神武天皇は誰なの?をお送りします。
待っててくれる人は少ないと思うけど、頑張ってみます。
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by sibanokuni | 2009-03-22 05:53 | マヨちゃんの古代史



ため息ばかりのシバちゃんと、ぼやいてばかりのご主人様、マヨの日記です。
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