シバちゃんのため息

2009年 05月 09日 ( 2 )

サイモンとガーファンクル

「ねー、マヨちゃん」
「どうした、シバちゃん」、「サイモンとガーファンクルが名古屋へ来るよ。」
「知ってるさ、でも平日だし、高橋真梨子は行くけどガーファンクルはやめとくよ。」
「フーン、でも久しぶりに聞きたいね。」
「うん、じゃあDVDで聞こうか?」
「にゃー、うれしいにゃー」

・・・・てことで、1981年にニューヨークのセントラルパークで収録されたサイモンとガーファンクルを聞きながらブログを書いてます。ここだけの話し、たぶんレコードを聞いてたほうがいいと思うよ。

今年は拓郎の最後のツアーに行かなきゃいけないし・・・、たぶん年末にはこうせつもあるだろうし・・・、忙しいな。

テレビは新型インフルエンザで大騒ぎ、ホテルに缶詰にされた人たちはかわいそー、人の予定もひったくれもありゃあしない、あちこちのブログで単なる風邪じゃないかと言ってるのにマスコミの騒ぎはなんだ。いやな感じ。

さて、「天皇の陰謀」、全7巻を買われた方もいらっしゃるようですが、先ほどアマゾンで見ると一冊2000円なんて値段がついている。いくらなんでも、元は750円ですから、こんなぼったくりで買ってはいけませんぞ。
根気よく一冊ずつ探してください。鬼塚さんは図書館で全部コピーしたと言ってた、根気がいいね。

今日は第五巻を読んでますが、ちょっと無視できない記事があったので、そこだけ引用しておきます。
第五巻p38より
1937年(昭和12)三月十八日には裕仁の弟秩父宮が、十五名の直属の部下を随員として日本を出発して、ロンドンで挙行されるジョージ六世の戴冠式出席の途に就いた。西欧側の文献では知られてないが、彼はジョージ六世を説得して、最近退位した兄のエドワード八世との間では成立していたと裕仁の感じていた、中国における日本の特権的な地位を認めるという合意条項を更新するという、秘密の使命を帯びていたのである。

私のガーター勲章理論を思い出してもらいたい、二二六事件の翌年である。いよいよ本格的に戦争に向かって準備を進める段階で、裕仁は念には念を入れ弟を英国へ派遣し、確約を求めに行ったと思うのは私の考えすぎか?
しかし、ミニーさんは英国主導の八百長戦争とはまったく主張していないので、偶然書き留めた出来事だったのか・・・ただし私的には無視できない。

ついでにもうひとつ、私の忘備禄として引用して置きます。五巻P99より、

黒龍会解散の後、地下の頭領、頭山満は1936年に皇室と停戦し、天皇の叔父東久邇宮と取引をした。その結果、頭山は貧民街の支配をつづけ、皇室の側近達は頭山を警察には不法だと思われる仕事に利用した。
木戸内大臣は・・・・日蓮宗の行者、井上日召を通じて、頭山と連絡を定期的に取っていた。

この記事が気になるのは、現在でもこの関係は切れていないのじゃないかと言う事を指摘しておきたいからで、色々な含みを持つ文章だと思う。

飯山さんは最近いろいろなところで注目されているようだが、インフルエンザの記事はもちろんのこと、横田めぐみさんの連載は格別興味深い。今日の記事では在朝日本人なんて話が出ていたが、私のアプローチはそちらではない、在朝黒龍会なのだ。あいにくこれ以上の情報はないので書けません。もう少し勉強します、お待ちください。

最近古代史はどうしたの?との質問はまったくないけど、実は、シベリア南部からスタートし、アムール河を下り日本までやってきた金大好き、トンネル掘り大好きな人々が日本のご先祖様に違いないと考えたところで研究がまったく行き詰ったと言うのが本当のところです。何処から調べればいいのかを考えながら、少し途中下車してます。たまには昭和史をひっくり返して気分転換します。また、なんか思いつくんじゃないですかね。
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by sibanokuni | 2009-05-09 19:42 | シバちゃんのため息

世紀の八百長、ノモンハン

いよいよノモンハンの話になってしまった。戦前の歴史の中でこれほど謎の多い戦闘はないのではないか。世紀の八百長という以上、じっくりとその陰謀を解き明かさねばならない。

ここまでの数々の陰謀は主に国内問題であり、比較的単純な八百長だったといえる。すなわち、天皇の中国進出の野望に対する、国内の反戦派の議員や陸軍北進派との内紛だった。従って、暗殺にせよ反乱にせよ陰謀論的に言うなら初歩的な構図であり、見え見えじゃん!というべきものだった。
しかし、このノモンハンの戦いは違う。その陰謀のスケールはドイツ、ソビエトを巻き込む壮大な八百長だったのだ。しかも、この間にドイツがヨーロッパで本格的に戦争を開始するのである。

では説明しよう、昭和14年(1939)の日本の状況だが、首相は反共産主義に凝り固まった平沼で、裕仁がソビエトに圧力を掛けないことで若干いらいらしている状況であった。そしてドイツとは防共協定は結んであったものの、本格的な条約を結ぶべくヒットラーからイタリアを含む三国同盟を結ぶ依頼が来ていた。
裕仁はそれに対し、二つの条件をつけることでヒットラーの機嫌を損ねていた。条件とは、「民主主義諸国を相手とする同盟についての条項は秘密協定とする。」、もうひとつは、「ドイツの参戦後、すぐに参戦するわけではなく、軍備が整い次第参戦する。」の二つだった。

ドイツは英仏との対戦を望んでいたが、ロシアに背後を突かれない為、ソビエトと不可侵条約を結ぶか、もしくは日本に対し軍事的な同盟を結ぶかの二者択一であった。

ソビエトとしては、二方面で同時に軍事脅威を感じることは国家の存亡の危機になってしまう。
早い話、ドイツと日本が手を組み、ソビエトに両側から圧力をかける事が両国にとって一番有利な戦略だったことは明らかである。

そしていよいよ裕仁は昭和14年五月11日、ノモンハンに向けての侵攻を許可した。しかしながら100万からの大部隊である関東軍から第二十三師団と第六軍のあわせて6万という比較的小編成の部隊であり、しかもひどく狭い範囲での作戦であった。
このときソビエトは日本で活動しているゾルゲから裕仁は本格的に進行する気がない事を聞いていた。

7月18日、スターリンはヒットラーに対し不可侵条約を結ぶ意思を表明する。
そして運命の8月19日、ソビエトの反撃は日本軍の想像を超えていた。つまり、西部戦線に回すべき部隊のほとんどが極東地域に回されていたのだ。
このときの戦闘で、東久邇の息子、東久邇護博中尉は側近に勧められ敵前逃亡をした。(一部で捕虜になったという説もあるが、ほとんどの目撃者が死ぬか自決させられ、真実は闇の中である。)

別の資料だが、小松原師団長の7月28日の日記を見ると、「敵の頑強なる抵抗をみると、平沼首相が全面的な戦争にならないと言明していること。7月3日の戦闘で、我が軍の飛行集団の作戦命令が敵に渡り、我が軍の編成が判明した・・・・」と書かれ、ソ連は日本が事件を拡大しないことを知っていたから安心してやってくるといっている。

8月19日、ヒットラーとスターリンは相互不可侵条約を結び、日本との協定は無視すると言明する。
8月22日、ドイツを信じていた平沼首相は「複雑怪奇なり・・」と述べて辞職する。
9月1日、ドイツはポーランドへ侵入。英国は直ちにドイツに宣戦布告する。
9月1日、裕仁はノモンハンの前線へ向けて、戦争を中止するための努力を開始する。
関東軍は反撃の許可を求めるが、反攻を望む関東軍司令官植田大将を更迭。
9月16日、ソ連との休戦協定を合意。
二十三師団の小松原中将は日本に帰国後切腹。将校の多くが戦死するか自決して果てた。

簡単に書くとこれだけの話なのだ。どう考えてもおかしい。何十万の兵士が関東軍には無傷で待機していた。誰が考えてもソ連と休戦する必要はないのだ。ドイツとさっさと協定を結び、全軍を挙げてシベリアを目指せば、ソ連は間違いなく崩壊し、ドイツも心置きなくヨーロッパ戦線に専念できたに違いない。

歴史にIFは禁物だけれど、裕仁がドイツとの同盟を躊躇しなければまったく違う世界がそこにあったはずだ。
共産国家ソビエトを育成するのが英国王室の方針で、それに対し日本もドイツも逆らえなかったという八百長の真髄がここに明らかに見えているではないか。
最終的にドイツはソ連と闘うことになるし、日本も最後にソ連に裏切られる。その悲劇の大元はこのノモンハンから始まったのだ。

司馬遼太郎がノモンハンを書けなかったのは当然である、いかに優秀な小説家であってもこの戦いを美化することは不可能である。なぜならこの戦いの戦犯は天皇その人だからだ。司馬遼太郎も松本清張も書けなかった、それが日本の現実で、ペンは金より弱しという事だろう。
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by sibanokuni | 2009-05-09 11:02 | マヨちゃんの陰謀論



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