シバちゃんのため息

カテゴリ:マヨちゃんの古代史( 106 )

皇位継承問題?

昨日到着した「世界騒乱の本質」という本ですが、サムライさんのおっしゃるとおり、著者は筋金入りの右翼のようで、中道ど真ん中(?)の私とは根底が異なります。しかし、不思議なことに、なるほどという事も多いのも事実です。内容は哲学的で難しく、とても書評などと言うものは書けそうにないですね。

そういえば、先日の日曜日、たかじんの番組に西尾幹二氏が出ていた。名前はよく承知しているし、かつては彼のブログを見ていたこともある。新しい教科書を作る会を追い出された経過はいくら読んでもわからなかった。ただ、その教科書の内容を巡っての内部分裂であったことはいうまでもない。教科書の出筆者となると、これはものすごい収入になり、毎年毎年固定収入になるのだから、彼等が一生懸命になるのも無理はない。ただ、西尾さんははじき出され、その権利は放棄したのではないかな?(詳しく知りませんし、何が問題であったのかもよく分かりません。)

さて、たかじんで彼は皇位継承問題を提議し、雅子さんを口を極めてののしり、「これでは困るんです。」とおっしゃっていた。「では、どうすればいいのですか?」と聞かれると、「それは言えません。」、え?、言えないならテレビに出るなよ。と思うと、「この本に書いてあります。」と言って自分の著書をズームイン。なんだ、金儲けか。
居並ぶゲスト達と西尾氏はお仲間達かと思いきや、意外や皆さん非難ごうごう。そうしてみると、日本会議からはじき出された西尾さん、結構生活が苦しいのかも・・・・・。

問題は雅子さんに男子の子供がいないことと、雅子さんが皇室行事をほとんど拒否していることでしょう。
皇室の祭祀というのは、日本の天皇が国を統治するに当たって、征服された部族、旧支配者たちの怨霊を静めるために行なうものであり、伊勢神宮や物部、三輪王朝・・・よくわからないが、何種類もの祭祀を引き継ぎ、大変にめんどうながらも、それを行わないことには征服された民族は日本国に従うことはできなくなるという性質のものだろう。もちろん、建前上、日本は太古の昔から天皇が治める神の国ですから、そのようなことを右翼の人たちが認めるわけがない。しかし、西尾氏ともなれば日本の真の歴史を知っているはずで、天皇家が引き継いできた祭祀を行なわないと日本は大変なことになると心配するのでしょう。
雅子さんが目指すのはキリスト教国日本であり、日本成立以前に支配していた部族の歴史の抹殺でしょう。もっと言うなら、多神教の日本から、一神教の天皇家への変身です。
当然、その線で東宮は進めているはずで、西尾氏が「皇居から外務省の役人を追い出せ。」というのは、皇室及び、宮内庁の内部にいる小和田一派(つまり外務省)、一神教徒を閉め出せという事だ。

私としては西尾氏の考えていることに一定の理解はする、しかし、奥歯にものの挟まったような理由ではなく、真実を明らかにし、今、皇居の中で何が起きているのかをはっきり言って欲しかった。
国民は何も知らないし、知らされることはない。だから、西尾さんがいくらりきんでも何も考えませんよ、皇居の中にどれぐらいキリスト教徒(クエーカー教)がいるのか、そして今上天皇はどうしようとしているのか、西尾さんはどうも知っているようだ。だからこそ、言えないけれどあせっている。そんな風に見えました。
個人的には、天皇が受け継いできた伝統ある祭祀を手抜きしたり、軽く見るとしたら日本はおさまらなくなる
とみる。つまり日本には、表面には見えないが、未だに日本を認めていない人たちがたくさんいるように思うのです。
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by sibanokuni | 2009-04-08 09:43 | マヨちゃんの古代史

ベネチィアの民主主義

いつかはこの記事を書かなくてはと思いつつ、なかなか引越しなどで忙しく、まとめる暇がなかった。が、このベネチィアの政体はとても参考になる。とても難しく十分に説明できるか心配ですが、やれるだけやってみます。ただし、全面的に塩野七生さんの著書、「海の都の物語」からの引用ですので、他での裏は取っていません。彼女がウソを書く理由はひとつもないからです。

おおむね13世紀に完成したその政体は、ベネチィアが亡びるまで機能していたと考えられます。まず、当時、市民大集会に一番の決定権があったものの、市民はポピュリズムに左右され、それでは長期的な展望に立てないという指導者の悩みがあった。そこで、国家元首の選び方を工夫することで、専制君主にならないよう、そしてローマ法王やギリシャ正教などの影響を受けないために大変に面倒くさい選挙方法を考え付いた。

まず、国会議員は六区あるうちの三区ごとに2人の代表を選び、合計4人の有権者が議員定数の半分に当たる100名を選ぶ、彼等の任期はたったの1年である。残りは書いてないが、たぶん貴族が選ばれるのだろう。(書いてないのでわかりません)

さて、終身の国家元首が死んだ時に次の元首をどのように選ぶのか・・・・・・
国会議員から30人が選挙で選ばれ、そこからくじで9人にする、その9人が40人の議員を選ぶ。その40人がくじを引き、12人にする。その人たちが25人を選び、またくじを引き9人にする。その9人が45人を選び、くじで11人にする。その11人が41人を選び、その41人が国家元首の選挙をして、25票以上を獲得すると国家元首となる。

国家元首に選ばれた人は最終的に市民大集会で承認されなければならない。さらに、国家元首は各区から選ばれた6人の補佐官とすべてを相談しなければ何も決まらないという。

どう考えてもよく分からないシステムで、私は何回も読み直し、ノートに書き写しながら、一体どんな意味があるのだろうと考え込んでしまった。ようは、くじを使うことで多数派工作が難しいし、また敗者復活制度もあり、最終的にそれなりにふさわしい人がなったんだろう。
日本でこれをやって見るとおもしろいが、どうなるだろう。ただし、終身の元首なのだから、責任はものすごく重い。現実に麻生さんが死ぬまで総理大臣になるとしたら、困るよね・・・・。もっとも、日本は天皇が終身の国家元首だったな、ただ、私達に選んだ覚えはないけど・・・。

つまり、ベネチィアの貴族達もそして市民も、特殊な国であるだけに、同じ船に乗っている運命共同体であることを十分に認識し、よその国のように権力者が誤って国を亡ぼさないよう精いっぱいの工夫をしたのだろう。
十分に理解できていないが、元老院銀の中から選出される10人委員会とか40人委員会というのがまた別にあり、これがまた元首に対し対等な発言権があったようだ。

コールマン氏が主張した「三百人委員会」の原型がこれなのかも知れない。三百人委員会と言うのが存在するかどうかは私にはわからないが、それが最高決定機関だとは思えない。おそらくそのような組織があったとしても、最高指導者はその上に存在すると考えるのが普通であろう。

ベネチィア商人たちはフン族が仕入れた奴隷達を黒海からアフリカの回教徒へ運び、大金をせしめ、その金でコンスタンティノーブルで金製品や麻薬などを購入し、ヨーロッパの貴族達へ販売することで巨万の富を築いた。銀行家達は、戦争を誘発し、軍資金を融資し、さらに兵器、傭兵を斡旋することで現在の地位を築くのだ。ベネチィア商人はその後、世界中に交易を広め、世界中に不幸の種を輸出したのだ。彼等のやっていることは基本的に現在も同じであろう。
オルタナティブ通信にもベネチィアの銀行家、デルタ・バンコとチンギスカンとの関係が書かれているが、オルタ氏によれば、彼等の情報システムは今でも生きているとのこと。
その情報が正しいかどうか、私には調べるすべもない。ただ、オルタ氏の主張は私の現在考えている仮説と重なるところがあり、思わず注目してしまった。
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by sibanokuni | 2009-04-02 09:58 | マヨちゃんの古代史

倭の国は燕に縁がある?

久しぶりに古代史をやりましょう。古い中国史書に「倭は燕に属する」とあり、倭が燕国の属国だったと書かれています。認めない学者も多いので、軽く聞き流す程度の話なのですが、春秋戦国時代に秦から逃げた衛満が、朝鮮国を略奪し建国したのが燕の国。「楽浪は古の朝鮮国、遼東にあり。」と後漢書に書いてあるから、燕は遼東にあった。その燕を亡ぼし四郡を設置したのが漢であります。したがって、四郡が遼東を中心とした旧燕国にあったのは間違いのないことです。
さて、遼東の一役人だった公孫氏が中国本土の混乱を見て、独立国を築き上げた。時代は三国時代であります。そして、その国も燕と称した。
魏に亡ぼされた公孫氏は皆殺しに会い、景観を作った。つまり、死体を積み上げられ山となったという意味です。この後、魏に取って代わった晋が八王の乱で争っている間、遼東は鮮卑と高句麗が入り混じって大騒乱状態に陥った。遼東や遼東半島の覇権は高句麗と鮮卑の慕容氏、そして鮮卑拓跋族の北魏が交代で握る。
北魏が中華本土まで統一するころ、おおむね遼東は慕容氏のものだった。もっと言うなら、高句麗も彼等に乗っ取られていた可能性が高い。その慕容氏が建てた国が前燕や後燕という。
その地域のことを燕と称するというのも可能だが、やはり国の名前というのはそんな簡単なものではない気がする。何故、燕と称したのかはまったく不明だが、そこに大きな謎がありそうだ。
もっと時代が下って、唐の玄宗の時代、ソグド人の安禄山が反乱を起こし、唐はウイグルに応援してもらいなんとか反乱を防いだ。しかし、一時的にもソグド人安禄山は大燕国と称したのである。
この安氏は何度も書いてきたが、ソグド人の故郷プハラ出身者が与えられる姓で、高句麗の安氏、即ち好太王の姓でもある。この安氏は慕容氏が高句麗から略奪した高句麗王妃を娶り、生んだ子供が好太王である。
話は急に飛ぶが、今日の一番言いたい事は、淵蓋蘇文のことである。高句麗の将軍でありながら高句麗王を殺害し、さらに傀儡の王を立てることが出来た正当性はどこに求めればいいのだろう。クーデターでありながら、高句麗のほかの武将は何をしていたのだろう。丸く収まってしまい、なおかつ唐との戦争には一致団結して見事な勝利を上げている。私はこの淵を燕の字で置き換えることでひとつの答えが出るのではないかと思う。彼が燕という国の正統な血流者だったとしたら高句麗王を殺す権威を持っていたのかもしれない。
出自のはっきりしない淵蓋蘇文であるが、読みは「えん」であり、字は当て字に過ぎない。
単なる仮説ですが、今後の課題として提示したい。
ものすごくマニアックな話でごめんなさい。こんなことばかり考えているのですよ。
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by sibanokuni | 2009-03-27 09:38 | マヨちゃんの古代史

マヨの古代史講座三回目(最終回)

今日のテーマ、神武天皇はだれなの?ということなので、神武天皇の正体が明らかにされると期待された方、まことに申し訳ない。私は、実は真剣にそのテーマに没頭した事がない。つまり、皆さんの知りたがっている神武の正体はお伝えできません。詐欺だ?そんなオバマな・・・・。
マヨの古代史はシンプル構造なのです。あまり細かい事気にしないで聞いてください。
平成天皇がいみじくもおっしゃった、「桓武天皇の母方に百済のゆかりを・・・・」というゆかり発言は国家元首としての一言だけに非常に大きい。
さらに、何度も取り上げているが、渤海からの使者が聖武天皇に対し、国書の中で「わが国と天皇さんとは親子の関係ではありませんか。・・・」と述べた件である。
私は気が早いから、下手に日本史を勉強するよりも朝鮮史の中から日本の天皇の祖先を探したほうが手っ取り早いと考えたのです。
まずは百済から調べると、百済の始祖は朱蒙であり、朱蒙は高句麗の始祖でもある、この朱蒙は伝説によれば夫余を追われ東へ逃げ、高句麗を建国している。史書を読む限り、朱蒙の出自は太陽の光になる。つまり、出自不明である。日本の始祖が百済、高句麗から出ていると考えると、朱蒙以前にさかのぼることはできない。つまり、神武が朱蒙であると考えるのは実に合理的な判断なのである。
朱蒙がいつの時代の人間なのかは後に回し、朝鮮には檀君神話というのがあります。檀というのは「まゆみ」であり、弓の材料の木を現します。朱蒙が弓の名手であったという伝説と、神武が東征したときに片手に弓を持った勇姿が見事に重なり、まさに朱蒙が檀君だったと私は考えます。
さて、中国史書に180年ごろ鮮卑族の檀石塊が遼東を荒らし、倭人を捕まえて漁業に従事させたと記録されています。これらの出来事を総合すると、ひとつの仮説が浮かんできます。
失われたイスラエル部族であるダン族はシルクロードを経て遼東へやってきた。彼等は東胡の一員であったが、匈奴から追い立てられ遂に夫余の地で活躍の場所を見つけた。夫余王の王妃、河伯の女に子供を産ませ、その子供を高句麗王にする。つまり、檀石塊が檀君で、韓流ドラマにでてきたヘモス将軍に他ならない。
立派な歴史なら良いけど、現実の歴史はそんなものだ。武力で攻め込んできた檀君に対し、夫余王は大事な
王妃を差し出し服従した。韓流ドラマにはクムワ王とヘモス将軍として登場している。彼は出来た子供を高句麗の始祖にしたのだ。つまりどう考えても高句麗の建国は西暦200年ごろにならざるをえない.当然ながら神武の即位も同じ事である。
さて、公孫氏が滅び遼東が無法地帯になったのは240年ごろである、(大雑把ですいません)、そこへ高句麗の東川王が進出する。これが日本で言う崇神天皇であろう。
鹿島昇氏をはじめ、百済王家に日本の天皇家の祖先を求めた研究書は多いが、私はそれらを意図的な高句麗隠しに見えてくるのだ。なぜならそうしないと後で、大問題が発生するからである。
その問題というのが広開土王である。彼の活躍したのは400年ごろで、集安(現在中国領)にある有名な石碑には、その地域まで倭人が攻め入り高句麗軍が撃退したと記録されている。
石碑が捏造なら仕方がないいが、日本の歴史家達が説明に困るのも無理はない。日本書紀にはそのような出来事はどこにもないのだから。
私はこの広開土王が倭の五王の一人と考えている。彼の姓が安氏であるとは過去に何度も触れてきた。ただし、それはパルティア国、つまり安息国と考えてきたが、最近はソグド人の可能性も考えるようになって来た。それらは同じ事かもしれないが、いずれにせよ彼ら安氏が南韓の地に安羅国を建国し、さらに彼等が応神天皇として日本に渡来し、飛鳥の地に拠点をもったことはまず間違いのないことである。
彼ら安羅国の人々は応神天皇時代よりはるか前から敦賀に上陸し、海部氏として徐々に奈良方面まで勢力を伸ばし三輪王朝を開いていたと考える。そこへ同族の応神一派が侵略してきた。その時の鉢合わせが有名な神武と対面するウマシマデである。つまり、神武東征で書かれていたのは応神天皇の東征そのものだったのである。安羅人は伊勢で王国を作る事を認められ、持統天皇の時代までその地で勢力を保った。

さて、キリがないので、今日はこのぐらいにしておこう。私の説を理解していただいただろうか。私は日本の歴史の源流は高句麗とより近いと思っている。しかし、奈良時代末期、たまたま日本に亡命していた百済王家が傀儡の天皇になり、関わりの大きかった高句麗の歴史を抹殺する必要が出てきた。一回目の講座で述べたように、それらはすべて匈奴軍を率いてきたソグド人がやったことである。
平安時代に日本の国体が完成した。表の権威は傀儡百済王家であり、世襲する。そしてその婚礼家系として鮮卑族を藤原氏に偽装し、将来的にも身分は保証する。裏支配はソグド人が寺社の中で行う。旧支配者、伊勢神宮は天皇家の祭祀集団として身分は保証される。
私の数年間に及ぶ集大成が最後の国体の表現であります。今のところ仮説ですが、大きく変わることはないのではないか。藤原家、特に不比等が実在したかどうか、これこそが日本史最大の謎なのである。

さて、三回に分けて書きました。書きたい事はまだまだありますが、今後はまた個別に書いてゆくことにします。長い文章にお付き合いしていただき、感謝いたします。
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by sibanokuni | 2009-03-22 14:11 | マヨちゃんの古代史

古代史講座二回目(みんなうそで儲けてる)

おはようございます。マヨです。シバちゃんが寝ている隙に記事をアップしましょう。
今日は歴史講座の二回目です。司馬ちゃんが出てきますよ。
さて、歴史学会最高の儲けネタ、邪馬台国のおはなしです。
これまた長いので、ごめんね。読みたい人だけ読んで下さい。

マヨの歴史講座二回目

私が歴史に足を踏み込むきっかけは、多くの人がそうであったように、邪馬台国のロマンでした。世界的な陰謀の研究に嫌気を感じ、つまり世の中がいやになるような、そして大人たちが怪訝な顔をするような研究は止め、もっと楽しくなるような研究をしたいなと思ったのでした。それが真剣に研究を始めると、じぶんでも意外な方向へ行ってしまった。
ほとんどの研究書は、邪馬台国論争のスタートを魏志倭人伝の有名な航路の謎解きからはじめる。まあ、当然なのだろうけど、もちろん、私も皆さんと同じく地図を開きながら韓国南部から対馬へ、そして壱岐へ、さらには・・・・こうして皆さん罠にはまっていくのですね。この方法をとる限り、絶対に歴史学会の思う壺にはまる事になる。それではいけないのです。
そこへ行く前に、どうしても知っておくべき重要な事があるのです。
一番重要なことは、なぜ卑弥呼が魏王に朝貢する必要があったのか、なのです。

当時の魏王室の状況は、魏帝が病弱で後継者争いが始まりつつあった。その中で実力、人望ともナンバーワンだったのが司馬仲達で、有力者達は彼を中央から遠ざける意味も含め、当時燕王として自立していた遼東の公孫氏を征伐する将軍に司馬氏を派遣する事を決めた。司馬氏も同じく、中央にいて勢力争いに巻き込まれるよりは、魏内部で勢力争いをさせたほうが自分にとって都合が良いと考えていたのですね。
問題は公孫氏が勢力を持っていたのは遼東、即ち楽浪郡であった。現在の遼寧省、瀋陽あたりと考えられる。さらに、帯方郡と言うのは公孫氏が楽浪郡十八県の中から南側七県を独立させ新たに作った郡である。つまり、そこは鴨緑江と遼東に挟まれた遼東半島に他ならない。(この論証はなかなか大変なのだ。)
ほとんどの歴史書がその真実をねじ曲げ、間違った概念を押し付けている。つまり、私が主張するのは遼東半島には三韓が、つまり馬韓・辰韓・弁韓がいて、彼等はそこに設置された帯方郡の公孫氏に服従していたと考えられる。しかも魏志によれば、三韓はそれぞれ倭と接していると書かれているから、遼東半島の南部にも倭があったことになるのだ。晋書によれば、倭には東倭といわれるものもあり、こちらを現在の北朝鮮に比定するのが妥当だと思う。つまり、現在の北朝鮮こそ倭の本国そのものだったというのが私の意見であります。
北朝鮮問題がいっこうに解決しない根本的な原因がここにあるのでは・・・と私は思っています。当然ですが、今の平壌が首都だったでしょうね。
さて、司馬氏は公孫氏の遼東郡を滅ぼすために、幽州から母丘倹率いる大軍を進軍させ、、遼東半島に上陸させた水軍とで挟み撃ちにする戦略を立てた。これは後の隋や唐も高句麗討伐にまったく同じ攻略法を使っている。つまり、遼東を制圧するには遼東半島、つまり、日本軍があれほどの被害を受けながらもどうしても奪う必要があった、旅順、現在の大連を占領する事が絶対条件であった。もちろん、従来の歴史では帯方は南朝鮮になっており、根本的に間違っているのだが。仮にそうであるなら、公孫氏は最初から存続できないはずで、こんな簡単な理屈がどうしてわからないのだろう。
つまり、学説からすると、公孫氏の攻略と卑弥呼の朝貢は何ら関連性はない。つまり学説からすれば公孫氏は戦う前から包囲されている事になり、魏がわざわざ対馬海峡を越えて倭国へ使者を使わす意義は認められないし、ましてや遠い日本列島まで内乱の介入をするほどのゆとりがあったとは思えない。
卑弥呼が遣使のやり取りをしている真っ最中に魏王は死亡するし、公孫氏は滅ぼされている。
卑弥呼が帯方へ使いを出したのは237年6月で、その年の8月、公孫氏は滅びていることになっている。仮にこれが本当なら、ギリギリセーフなのだ。なにが?つまり、魏が公孫氏を討伐するのに卑弥呼が協力したという事実が残るのである。
しかし、晋書には「宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見、其後貢聘不絶。・・・・・」とあり、司馬氏が公孫氏を滅ぼした後に朝貢してきたと読める。(諸説あり、卑弥呼が公孫氏と読む人もある。私としてはどちらでも良い。)どちらが正しいかはやぶの中だが、私から言わせれば邪馬台国は内部で二つに分裂しており、魏への朝貢はギリギリの判断だったと思うのです。司馬氏が公孫氏を滅ぼすとすぐに魏帝は危篤に陥り、司馬氏はあわてて都へ急行する。その時点でもう彼には遼東情勢などどうでもよくなり、魏を簒奪する陰謀に突入してゆく。さらにその後、魏から晋への易姓革命が起こり、晋が滅び、北魏が中華を統一するまでの長い期間、韓半島と遼東は五胡十六国の乱に巻き込まれ、復元できない歴史時代を迎えるのである。
まさに、この時代こそ日本の歴史に関わる一番重要な期間なのだ。


要点は楽浪郡の位置の把握であり、倭国の本当の存在した位置である。私の説を元に中国史。朝鮮史を読まれるがいい、いかに従来の歴史が矛盾に満ち溢れているかわかるはずだ。
どれだけ日本中を探しても邪馬台国はでてくる事はない。邪馬壱国という表現があるというが、そんなことは枝葉の問題で、史書の編纂者が前史を否定できない場合の苦肉の策にすぎないのだ。
以前、邪馬台国、エジプト論というのがあるといったが、恐らくそれは正しい。つまり、陳寿は絶対に倭国がどこにあったのかわからないように魏志に記したのだ。なんのために?おそらく、その後卑弥呼が殺されているが、司馬氏が卑弥呼や三韓を裏切った事を隠すためだったのではないだろうか。
日本書紀には卑弥呼も邪馬台国も書かれていない。書記の編纂時、当たり前だが、魏志の内容は知っている。なのに、何もそれに触れなかったのは、当時の歴史家にとって邪馬台国は日本にはまったく関係のない地域の歴史だったと認識していたとしか思えない。ところが近代になって邪馬台国論争が銭になると分かり、学会はこの論争で非常に儲かったであろう。しかし、そのおかげで倭国の歴史が明らかになってくるというのは歴史の皮肉とでもいっておきましょうか。うそつきどもよ、くたばってしまえ。

さて、ここまでお読みいただいた方、ご苦労様でした。次回、第三回は神武天皇は誰なの?をお送りします。
待っててくれる人は少ないと思うけど、頑張ってみます。
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by sibanokuni | 2009-03-22 05:53 | マヨちゃんの古代史

古代史講座(一回目)

今回、お引越しに当って皆様に大変ごめんどうをかけましたが、思いのほか多くの方から連絡をいただき、感謝いたします。コメントの中で、おせいじかもしれないけど、意外や古代史に興味をもたれるかたが多く、ちょっと驚きました。新しい家に移った機会に、私の古代史研究の現状を何回かに分けてお伝えします。
長くなりますので、興味のない方はパスしてください。
ブログは短いほど良いというのは十分承知していますが、自分の考えを少し掘り下げると多少長くなるのはやむを得ないという事です。

私の最大の研究課題
多くの課題が山積みされている中で、完璧に一つ一つ解決するより、大体の見当が付いたら次に移るのが私の流儀です。あまり完璧に証明しようとすれば狭い範囲で時間を費やす羽目になる。それよりも、なるべく広い範囲で大まかな流れを作ったほうが楽しいし、勉強になると思うのです。
私が出版を前提として研究するなら、そんなわけにはいかない。あらゆる論議を前提に、誰から突っ込まれても平気なほどの論証をしなければならない。そんなのはあまり楽しい作業ではないし、読むほうも退屈だろう。
私はそんなことより、自分が納得できる歴史が知りたい。それには少々の憶測や仮説を導入しなければならない。結局、壮大な時代小説を書くつもりと言ってしまいましょう。
私が一番知りたいのは、日本書紀は何のために書かれたかであり、唐の李世民が何のために多くの国書を作ったのかであります。中国の史書にははっきりと書かれていないが、唐は鮮卑族が建設した国であり、常に西側から突厥=匈奴の圧迫を受けていた。しかし、李世民が即位した後、見事に突厥を分断し、中華史上初めて天可汗になることができた。しかしその栄光もつかの間、高句麗との戦いに破れ、そのショックもあって死亡する。648年のことである。高句麗との戦いは645年の事で、大化の改新の年である。果たしてこの時に唐が日本に対し影響力を及ぼす事ができたかといえば、それは無理だろう。まったくの憶測ながら、事実上、この時唐は亡び、淵蓋蘇文が唐を属国にしたと考えている。
大半の史書は唐が降伏したとは書かれていないが、私は李世民が淵蓋蘇文に破れ、城下の礼を取らされたのは間違いないと考えている。
問題は、この淵蓋蘇文の出自がまったくわからないのである。なんと、高句麗の王を殺し、傀儡の王を立てて唐と戦争をしている、もちろん、唐軍を深く遼東にひきつけた上、背後から突厥の残党を呼び寄せるという、まことに見事な采配である。何故、そのような軍人の出自がはっきりしないのだろう。そして、天才的な戦略を見ても、単なる高句麗の将軍とは思えないのだ。彼がソグド人と言うのが私の仮説である。残念ながら、その可能性が高いにもかかわらず、調べようがない。ただ、高句麗王を殺した時点で自分が王になることも可能であったのに、あくまで将軍におさまり、傀儡の王を立てるところが怪しいのだ。これが闇の支配者達のやり方である。これらは、藤原家が天皇になれる力を持ちながら、あえてその地位につかず、寄生虫のように生き延びてゆく伝統的な処世術のようなものがあったように思う。
唐は世民が死に、高宗が即位するものの、実権は淵一門が握ったのではないか。そして高句麗を唐の一部とし、淵の息子に実権を渡し、自らは韓半島を南下、、新羅を作り、九州から日本の皇帝として飛鳥の地まで侵攻した。これが天武天皇だとすると、ちょっと飛躍しすぎか・・・・。
細かい事は無視して、天武が九州に侵攻したのが白村江の戦いで、奈良まで攻め込むのが壬申の乱なのだろう。理解してもらうのは大変に困難だと思うが、私はこの説が気に入っている。まったく聞く耳を持たない人は、従来からの歴史観にすっかり犯されているせいだろう。もちろん、従来のいわゆる官製歴史を全部破り捨てるという暴挙なのだが・・・・。
ここで重要な事だが、高句麗は淵一族に乗っ取られ、唐になっている。新羅は、実は旧倭国連合であり、恐らく突厥族に乗っ取られ、新しくシラギと呼ばれる。では、天智天皇たちは誰なのだろう。それは九州と韓半島南部に存在した伽耶国の王家ではないかと考える。
以前、法隆寺は移築されたという記事で、その当時、つまり聖徳太子時代から白村江の戦いのころまでの歴史は大宰府でおきたことだといった覚えがある。つまり、ここが日本の前身であり、天武はここを亡ぼした後、重要な建造物を押収し奈良へ持ち去ったと見るべきだろう。
問題は淵蓋蘇文がいつ死んだのかということで、天武と同様、確実な死亡時期は不明である。おもしろいのは、淵蓋蘇文の遺言が三国史記に載っていないのに、なぜか日本書紀に記されていることである。ふしぎだな・・・・・。
淵が死亡した事で、東アジアは大混乱に陥る。このおかげで唐は滅び、周となる。則天武后という女帝の存在は否定しがたいのだが、果たして本当に実権を持っていたのかは謎の中である。ただし、一時的に突厥第二帝国に対抗するため、吐蕃と手を組んだのではないかと言うのが私の推理である。その証明も非常に困難だが、唐や周が仏教をどのように扱ったかなどから推理してゆくしかない。
天智天皇時代の仏教は実は半島から来たものではなく、陳などの南朝仏教だった考えいます。なぜなら、当時の状況で、高句麗や百済を経由して仏教が伝わる状況ではなかったと見るからです。

天武時代から桓武天皇に至る時代は、表面的に見ても匈奴勢と国内鮮卑族との争いであり、結果、匈奴勢力が勝利し、鮮卑族は天皇の婚姻家系として存続を許され、権威の象徴として形だけの天皇家は百済王家に与えられた。そして、匈奴勢力は寺社を隠れ蓑に全国を支配する。私はこれらの戦略を編み出したのは知力のすぐれたシルクロードの支配者であるソグド人しか考えられない。

彼等は裏で暗躍し、表面的な勢力争いは軍人にやらせ、自分たちはあくまで裏支配を心がけた。彼等は僧侶に身を隠したり、官僚として政府の要人にもぐりこんだりしてきたのだ。匈奴の軍人はソグド人の傭兵部隊であり、ソグド人が彼等を利用してきたと見る。彼等僧侶が宗教を隠れ蓑に支配者として君臨した証拠は、日本建国の時代から、現在に至るまで、税金とは無縁の世界で特権階級を維持していることである。奈良時代や平安時代に天才的な僧侶が多く輩出しているが、彼等こそシルクロードからやって来たソグド人に違いない。そうでなければ遣唐使として派遣され、唐の都で中国語を操り、難解な仏教の法典を読めるわけない。その当時に寺社以外で学問を学ぶ施設はなく、ごく少数の選ばれた人だけが学問を志していたはずだ。ソグド人は最初からエリート達の集まりだったのだろう。

日本の歴史書にソグド人が大挙してやってきたという証拠はない。しかし、商人でもある彼等が侵略軍とともに日本に渡来し、さらに、百済や高句麗、新羅からたくさんの職人を強制連行し、日本を建国する基礎を築いたと考えれば、日本書紀を編纂し、自分たちの存在を見えないものとする彼等の目論見がある程度わかる気がする。中国史、朝鮮史、そして日本史、すべてに共通するのは影の支配者の姿を消し、表の抗争を歴史のすべてであるよう取り繕ったのではないかと言うのが、今の私の考えです。

*******
と、以上のような事をかんがえています。なにぶん従来の歴史と違いすぎて、どこから手をつけていいのやらということです。
次回は、私がこの研究を始めるきっかけとなった、邪馬台国についてまとめてみるつもりです。
ブログに書いてきたことばかりですが、新しい家に移った記念に、自分の考えをまとめる意味でも一度やっておくべきと考え、ここに発表したしだいです。
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by sibanokuni | 2009-03-21 10:31 | マヨちゃんの古代史



ため息ばかりのシバちゃんと、ぼやいてばかりのご主人様、マヨの日記です。
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