シバちゃんのため息

カテゴリ:マヨちゃんの古代史( 106 )

エジプト王の呪いってどんなん?

現在ねむい目をこすりながら「ツタンカーメンと出エジプトの謎」(アンドレ・コリンズ著)を読んでいる。恐ろしく小さい文字なのであまり長く読めないのである。歳は取りたくないものだ。

天童さんの本を読んだので、コリンズ氏の本の内容はおおむね見当がつく。それにしても恐ろしく細かい分析をするものだ。なるほど本を書くというのはずいぶん大変な作業ではある。私など到底その資格はなさそうだな。
「カーターは実はパピルスをこっそり持ち出していた。」と言うのは簡単なのだが、それを誰もが検証可能で、誰もが納得できるように説明するのは大変な作業なのである。複数の書物から引用し、お互いの矛盾を探し出し、決定的な証言を見つけ出す・・・、確かに推理作家のような仕事である。
天童さんの本にも同様なことがされているが、英語の原書と日本語版との差を探したり、それは大変な仕事である。まったく頭が下がります。

現在読んでいるところは、ツタンカーメン発掘のスポンサーであるカナーヴァン卿が世紀の発見の直後、怪しげな死に方をしたあたりである。実は彼は貧乏な貴族だったが、一説に寄れば、ロスチャイルドの私生児の娘と結婚し、義父・ロスチャイルドにすがることで道楽の考古学に財産をつぎ込んだようである。おそらくロスチャイルドとしてはそのような発見を望んでいなかったであろうが、私生児とはいえ、かわいい自分の娘が貴族に嫁いだのである。世界一の大金持ちにとって発掘費用など安いものなのだっただろう。しかし、あってはいけないことが起こってしまった。カーターはツタンカーメンの墓を発見してしまったのである。さらに悪いことに、カナーヴァン卿とその奥様との仲は冷え冷えとした関係となり、実質的に別居状態になっていたのである。
さらに、さらに、よせばいいのに、カナーヴァン卿は触っていけない重要な遺物をこっそりと隠し持ち、本国へ送ったのである。おそらくロスチャイルドはその墓にあるものが、自分達にとってあまり誇らしいものではないことを知っていた可能性がたかいのだ。
で、かわいい娘と関係が冷えている上、警告に従わず、勝手に遺物を触ったという罪に対し、抹殺の指令が下ったのである。エジプト王の呪いなどというデマを飛ばすのは彼らの十八番である。かくして蚊に刺された傷が元で変死したのである。
それにしても、現実の発見者であるカーターが殺されなかったのは実に不思議なことである。おそらくはロスチャイルドがうかつに手を出せない対抗策を講じたのだ。つまり、最大の秘密「パピルス」を含む大事な物をどこかへ預けたのだろう。自分の命を守るにはどのようにするべきか、カーターはしたたかだったのである。しかし、エジプト当局との争いの中で、思わず口にした言葉でようやく我々はそれらパピルスの存在を知るのである。

ただし、その問題のパピルスだが、私の憶測では未だにロスチャイルドは手に入れていないのではないかと思うのだ。栗原氏の言からもうかがわれるのだが、第二次大戦も、あるいはイラク戦争ですら、それらの争奪戦だった可能性があるのだ。

まるで映画のストーリーではないか。もし本当に出エジプトの時の「恥ずべき行状」を隠すために多くの人民が戦争で死んだとしたなら誠に恥ずべきパピルスである。・・・・・さあ、何が書いてあったのかな?奇兵隊さんによれば、「エジプトから多額の借金をし、返さなかった」と言うが、そんなものじゃないと思うのだ・・・。
この研究はもう少し続けます。
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by sibanokuni | 2010-04-14 09:59 | マヨちゃんの古代史

パピルスはどこに?

今世界中で大変な事が起きている。ポーランド大統領の乗った飛行機が墜落し全員が死亡した。タイでは反政府運動が止らない。キルギスでは騒乱が起き政権が転覆した。ギリシャは国家財政が破綻し、トルコもなにやらきな臭い噂も出てきている。これらはつながっている?

閉じ込められた神さまが動き出したのかどうかの判断は、正直を言うと私には出来ないが、ただ、基本的に世の中には偶然で起きることなどほとんどないのだから、これらすべてがつながっていると考えるのが当然のことであろう。

現在、天童笠丸氏の「憎悪の呪縛」とコリンズの「ツタンカーメンと出エジプトの謎」が机の上に置いてある。この二冊に共通するのは、ユダヤ人の聖典に書かれているユダヤ人の出自に対する疑問、そして一神教が誕生するに至った理由、さらにはそれらが書かれていたと考えられるツタンカーメンの墓に埋もれていたと思われるパピルスの謎である。

たかがパピルスごときが世界騒乱の原因になるものだろうか・・・・・、そう考えるのが普通である。ツタンカーメンの発掘をしていたのはイギリス人の山師である。問題は、1922年から23年ごろのこと、世紀の大発見をしたものの、エジプト考古局を管轄する公共事業省とカーターの間にトラブルがあり、カーターの発掘許可が取り消された。
これに激怒したカーターはカイロの英国領事館へ乗り込みこう主張したという、「全面的に満足のいく正当な扱いを受けなければ、墓で発見した文章を世界に公表する。エジプト行政府が記録したユダヤ人の出エジプトの真実を明らかにする文章を・・・・」(コリンズ著のp442)
天童さんの著書にはトマス・ホービングの「ツタンカーメン秘話」からその部分を引用しており、まったく同じ内容だが、カーターは「王墓で発見した未発表のパピルスを含めて、エジプトからユダヤ人が脱出した時の恥ずべき行状の真相を述べた記録を公表するだろう・・・」と書いてある。
この一言で発掘品の中に未公表(つまり秘匿されたか、私物化した)のものがあり、そこにはパピルスが含まれていたことがはっきりする。そしてなんと、そこには「ユダヤ人の恥ずべき行状」が記録されているという。当時、いわゆるバルフォア宣言というものがされたころで、ユダヤ人にパレスチナの地を与える約束が問題になっていた時期である。イギリス政府も大変にあわてたであろう。
いずれにしてもこのパピルスは公表されず、現在においてもその存在は確認されていないのだ。

栗原さんはこのパピルスは秘匿されたとし、「第二次大戦のユダヤ弾圧の意に通じたら、驚天動地の歴史は現在と未来を透かすことになり、史上に初めて平和という絵空事を達成する手がかりを得られる。」と述べている。(「みち」4月号)

私の推理はこうである。ツラン同盟は「出エジプト」でのユダヤ人の恥ずべき行状を記録したパピルスを入手し、ワン・ワールドが行ったユダヤ人のパレスチナ入植には何ら正当性がない事を証明した。そして英国の推し進めてきた地政学に対し反撃を開始したのではないかと。もちろん憶測で確率は低いかもしれないが、世界がひっくり返りつつあるのだ。従来なら、鳩山首相か小沢は暗殺されていたかもしれない。しかし、それは行われていない。つまり、アンチ・ワン・ワールド連合は重大な「切り札」を持っていると考えるのだ。

さあ、面白くなった。タチバナの研究からとんでもないものが飛び出してきたのである。
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by sibanokuni | 2010-04-11 06:57 | マヨちゃんの古代史

平城京の秘密とは・・・

「本音」のブログでエジプトやったり、こっちで観音様をやったりと、相変らず何の脈絡もなく、一体どうなってるかっていうと、実は何も考えていない。どちらもなるべく間が開かないように気の向くまま書いている。原則はほとんどないと同じ。ただ、なるべく「本音」のほうは軽いのりで、シバちゃんは研究を・・・・かな・・・。

さて、昨日NHKが平城京遷都1300年記念に放映した「大仏開眼」が録画してあったので、せっかくだから見ることにした。先にハイビジョンで放映し、地上波では近々再放送するはずである。
まず、印象はというと、さすがハイビジョンだけあって、映像はとてもきれいだ。そして現実に復元してある建物も利用しているのでなかなか面白い。まあ、細かいことを言うとキリがないけれど、私としては歴史の勉強素材としては十分価値があったと思う。本来なら大河ドラマとして一年以上できるほどの内容を二回、3時間でまとめるのは難しかっただろう。目的は平城京の時代の再現と、大仏がなぜ作られたかを伝えたかったものだろうから。

しかし、ドラマでは大仏を作るきっかけが聖武天皇の聖母、藤原宮子の病を治すのが目的で、ついでに人民を救済するため・・・みたいな理屈である。
いくつかのチェックすべき項目があるのだが、まず、平城京の跡地へ行けばわかるが、平城京は歴代天皇稜のいくつかを削る形で造営されている。つまり、それ以前の王朝の墓?を掘り返し、埋め立てて造られているという事である。
そして大規模古墳というのは必ずしもそこにその王朝があったという意味ではなく、あくまである政権がその地域を制圧し、住民を奴隷となし、地域の豪族に対し重圧をかけるために造営したのである。つまり、江戸時代の参勤交代みたいなもので、いわば「いじめ」だったと思うのだ。もちろん、景気対策や治水事業の面もないわけではないが、その評価は歴史的にされるべきで、立派だなと感心している場合ではないのだ。

大仏開眼もまったく同様ではないのか?平城京政権の聖武天皇は実は傀儡で、ようやく統一した日本は全国から集めた税金をまったく役に立たない箱物につぎ込んだのだ。いわば平成の無駄遣いの見本みたいなもので、国民はたまったものではないぞ。ではそれをやらせたのは?言うまでもなく当時の最高権力者は寺社であると考えるのは当然だろう。つまり、当時の法相宗しか考えられない。藤原家を悪玉にするのが一番手っ取り早いが、逆ではないか?もともとの支配者、蘇我氏の生き残りであろう藤原氏は平安京までずいぶんいじめられていると見ている。
へそ曲がり歴史家のマヨちゃんは絶対にまともには歴史を読まない。逆じゃなければ歴史は解けないのだ。

この大仏は当時の経済状況を考えると、おそらく税収の何割もつぎ込むほどの大きな負担を政権に強いたはずである。これが結果的に倭国以来継続していた女系の王統譜が途切れてしまう原因になったのではないのか。つまり、金がないので日本に国債を買ってもらわなければ破綻してしまう現在のアメリカ状態になってしまったのだ。そこに百済王家が大量の金を寄進してくれる。うーん、話がうますぎる。つまり、計画的だったのだな。
平城京から長岡京へ遷都し、すぐに平安京へ移る。桓武天皇は二度都を移したというが、それはたぶんうそである。本来はその間に井上親王が即位していたはずだ。この平安へ遷都するときに政体が変わり、男系に移ったのであろう。

平城京の時代と平安京とは大きな違いがあるはずで、日本が成立した後、再び倭国が復活し、再び日本へ戻ったその激動の時代が平城京の歴史なのである。まだまだ歴史に書かれていない謎はいっぱいあるのではないかな?
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by sibanokuni | 2010-04-08 06:30 | マヨちゃんの古代史

秘仏は公開できない。

昨日は一日、なんとなく観音さまを調べていた。結論から言って、何もわからない。いつから信仰されるようになったのか、どこから始まったのか、ほとんど何もわからないのが実態だ。
はっきりしているのは極めて女性っぽい仏さまなのである。スケベな目で見ては申し訳ないが、女のようでかと言ってやっぱり男のようで・・・・本当は男仏だったようだが、必要に応じ姿を変える特技があったようだ。っていうか、相手に合わせてっていうか・・・・要は、見る者に勝手に解釈させたのかもしれない。

matsuさんの指摘でさっそく白州正子さんの「十一面観音巡礼」を開き、この谷汲さまの項を見てみると、さすがですね白州さんは、この谷汲地方は白山信仰の盛んな地域だから、この地域の人々は「おしらさま」、すなわち例の菊理姫を思い浮かべながら観音さまを拝んだのではないかと推測している。私もおそらく支配者は仏経を伝えるにあたり、方便でククリ姫と習合させたに違いないと思う。
新しい支配者がなにやら拝めと命令するが、よく聞けば「おしらさま」のお姿らしい、「これはもったいなや・・・」、って感じで、この地域の人を従わせるには「おしらさまであるぞ」、といえばみんなおとなしく従ったのであろう。
ところがご本尊みせてしまえばどう見ても男仏にしか見えないため、あえて秘仏として公開しなかったのではないか・・・うがちすぎかな?

それにしてもこの西国三十三箇所のお寺の観音さまには秘仏が多い。なぜ秘仏なのかは過去に善光寺の秘仏で考えた事があるが、いまだに本当の事は分からない。はっきりしているのは公開すると困ることがあるからとしか言えない。
戦国武将たちが争って善光寺のご本尊を欲しがったのは、そこに日本誕生の秘密があるに違いないというのがマヨちゃんの憶測だが、もうひとつ、先日も言ったように日本は女性天皇が祭祀を受け持っていたため、日本を支配するにはどうしてもご本尊を女性にする必要があったと思ってしまうのだ。
見る人がそれを卑弥呼と見ようが、天照と見ようが、あるいは宗像三神、菊理姫、コノハナサクヤ姫だろうがご自由にどうぞ、とこのように仏教は実に鷹揚だったのだ。

観音さまは苦しむ人民を助けるために、広く衆生の機根(性格や仏の教えを聞ける器)に応じて、種々の形体を現じる。これを観音の普門示現(ふもんじげん)という。法華経「観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)には、観世音菩薩はあまねく衆生を救うために相手に応じて「仏身」「声聞(しょうもん)身」「梵王身」など、33の姿に変身すると説かれている。このなんにでも変身できるところが実に便利ではないか。

日本国の成立は早くても天智天皇、実質的には持統天皇の頃である。それではそれ以前にこの揖斐から美濃、そして福井県一帯はどんな国であったのか?それは少なくとも倭国ではなかった。間違いなく越国の一部、越前王朝だったに違いないのだ。むろん白山王朝である。それが倭国が滅び、新しい国、日本が侵略してきた時、住民にとっての祭祀王、「菊理姫」は実は弁天さまであり、観音様の変身した姿のひとつなのだと納得させられたのだろう。わかっている人はわかっていても、その秘密は深く隠されたのだ。これらの恨みはいずれ加賀の一向一揆で爆発する。教科書に本当の事が書かれることはない。

加治木さんは日本には半島から渡来した支配者はいないと主張するが、それはありえない。少なくとも越前から越後までは間違いなく満州方面からの部族が暮らしていたのである。「おしらさま」が新羅か高句麗かは論議が分かれるものの、私から言わせればそれは同族であり、吉林省の白頭山信仰がそのまま移住したものである。
・・・・・・本日の観音様の話はここまで。
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by sibanokuni | 2010-04-06 06:22 | マヨちゃんの古代史

秀吉の息子が天皇に?

さて、昨日の小説を書くために一週間ほど下調べが必要だった。本当に時代小説を書く作家の人たちは大変なのだろうと感心する。しかし、私の小説はエッセンスであり、肉付けをすることでいくらでも量を増やす事が出来るのである。例えば天海と家康が江戸を出発し、熱海に行くまでで5枚にしろといわれれば、それはもちろん可能である。単に私がずぼらな事と、謎解きが主であるため、読者をじらさないために単純化してあるのと、単に私がせっかちなだけである。

昨日、秀吉が皇位継承に口を出したと書いたが(これは私の憶測であります。)、同じ様に信長も重大なミスを犯している。いくつかの理由で朝廷が信長を暗殺したと私は考えているが、ひとつはやはり秀吉と同じ様に皇位継承に干渉したことと思われる。

それは正親町天皇が在位しているにもかかわらずその子、誠仁親王を「今上皇帝」として、信長もそして家中の者にも徹底したのである。もちろん信長が鉄砲を融通してもらうため、キリシタンと親しく付き合っていることも許しがたい事だった。しかし、やはり信長は朝廷の力を侮っていたのである。天皇は自分のお庭番である光秀、家康と打ち合わせをし、丹波衆を中心とする光秀に暗殺を命じたのである。結局信長は足利幕府をつぶした時点で用済みだったという事だ。

秀吉は鉢屋というサンカの親分であり、毛利とは通じていたのである。おそらく信長の下にスパイとして送り込まれていたやはりサンカの千利休から、朝廷の意向の連絡は受けていたはずである。

秀吉が天下を取り、その後、後陽成天皇が即位する。後陽成天皇は秀吉の子供(養子といわれるが・・・)である智仁親王のために宮家を創設し(八条宮(桂宮)家や清華の広幡家となる)、順調に行けば彼が次の天皇になった可能性が大きいのである。
wikiによれば、そこのところを「関ヶ原の戦い直後、後陽成天皇は当初皇位継承者とされていた実子の良仁親王を廃して弟に当たる智仁親王に皇位を譲ろうと考えた。そこで、時の天下人である徳川家康に譲位の旨を打診したが、家康は智仁親王が秀吉の猶子であることから反対した。そして結局、皇位は慶長16年(1611年)に良仁親王の弟の政仁親王(後水尾天皇)が継ぐこととなったのである。」となっているが、じつは家康は天皇のお庭番だったからこれはあり得ない話で、真実は後陽成は皇位を智仁親王に譲りたくないから豊臣政権を終らせたと考えるのである。ただし、秀吉の子供が天皇になる資格はあったのではないか、あるいは関白になれた以上、正史に伝えられている秀吉の出自が間違っていると考えるのは当然である。つまり、秀吉の実母、あるいは実父がそれなりの人だったと私は考えるのである。

天皇家が当時、まったく無力で貧乏だったと正史は伝えているが、それを真に受けてはいけない。太古から現在に到るまで、天皇家は影のお庭番を使って自由自在に武家を動かし、影の実力者として君臨していたのである。
このような歴史観を持つ人は少ないだろうけど、万世一系という以上、それらに対抗する勢力を排除してきた実力があったのである。
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by sibanokuni | 2010-04-03 09:52 | マヨちゃんの古代史

次にしらべることは・・・

「タカス」を調べていて、知らないうちに水戸家を調べることになり、そしたら徳川家には徳川慶喜家と徳川宗家があることがわかった。一般的に見るなら仲がいいとは思われない。また、お万の方の出自はなんと桓武平氏の血流のようであることもわかった。これも意外であった。
徳川は過去の研究で、源氏もしくは新田系だと考えている。しかし、家康はそれを承知の上で平氏系の家系に水戸家を与えたのだ。そして、徳川家と朝廷が争うことがあったら水戸家は迷うことなく朝廷のために働けと遺言したという。これは不思議なことである。

徳川家の血流は何度も変わっている。家康の血は家光の頃に入れ替わり、そして吉宗の時、紀州へ移り、それから何度も移った結果、最後は水戸家で終わった。細かいことは私にはわからない。ただ、客観的に見るなら、紀州には恨みが残ったのではないかという事である。

秩父宮妃や高松宮妃はいずれも水戸人脈であり、慶喜系と言えよう。私の推論では水戸家はお庭番の役割を担っており、幕末の外圧の中、大政奉還をするために動き出したように見える。もちろん八百長である。それに抵抗したのが井伊大老だろう。調べればわかることだが、松平忠固や水野忠央(紀州藩付家老)ら南紀派の政治工作により 安政5年(1858年)4月23日、直弼は江戸幕府の大老に就任したのである。

さあ、ここに大きな対立軸が見出せる。私が探しているのはこのような対立軸で、日本の支配者層がどのように分断されたのかを調べることである。源氏や平家、北と南、仏教と神道、紀州と水戸・・・・いくらでもでてくる。
しかし、その中で亡びる寸前、白い布に身を託し、きわどく生き残り、最後に天下を握った「お万」の血はもう少し調べていかねばなるまい。
お万が家康に見初められるあたりの事情を知りたいな。他にもたくさん調べることがある。わかるといいのだが・・・。
ところで、よくよく考えてみると、紀州藩のそもそも始まりは家康の10男頼宣で、よく考えたらこれはお万の子供じゃん。つまり、系図が正しいとすればほぼ全部お万から出てる?えー?その割にはあまり知られてないな。不思議だ・・・・・ぶつぶつぶつ・・・・。
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by sibanokuni | 2010-04-01 06:31 | マヨちゃんの古代史

下調べ。「お万」がタカスする。

タカスの調査はなかなか面白いが、いかんせん時間がない。調べてから書いているのではなく、書きながら調べているのだから、どんな展開になるのか自分でもわからない。
ただ、はっきりしているのは「お万の方」の子孫が徳川宗家になり、ついでに皇族にも名を連ねたというサクセスストーリーなのである。
若干めんどうだが、ひとつひとつの裏づけをしてゆかねばならない。面白いかどうかは責任がもてないが、しばらくはその作業に専念しよう。

まずはスタートとして「正木家」から。いろいろ探しても詳しく書いてあるのはここしかない。このHPはいつも感心するが、実によく調べてある。助かります。引用しましょう。

「 正木氏の祖は、相州三浦氏という。すなわち、北条早雲に攻められた三浦道寸とその子義意が滅亡に際して、一子を船で逃し、これが安房の正木郷で成長し正木氏を名乗った時綱(通綱とも)だとされている。しかし、この説は年代的に無理があるようだ。
 一方、『集成正木家譜』では時綱を義意より三代前の三浦介時高の実子としており、「大多喜町史」「東金市史」などはこの説をとっている。三浦介時高は長く実子に恵まれなかったため上杉氏から義同(道寸)を養子に迎えていた。ところが晩年に至って実子弥次郎が生まれ、実子可愛さのあまり義同を疎外するようになった。これを怨んだ義同は、明応三年(1464)時高を急襲して討ち取ってしまった。幼少の弥次郎は船で安房国に逃れて、里見成義に庇護を求めたのである。」
ここで出てくる里見とは、あの有名な里見八犬伝の里見で、お犬様神話で有名だ。ただし、これはあくまで講談の世界で、実際はどうなのかな?
家紋からすると丸に三つ引きだ。桓武平氏とある。これは意外だが、この阿房国は平家そのものだからこれで間違いはないのだろう。
途中の歴史は格別面白くもないが、略するわけにもいかない。

「慶長十一年(1606)の分限帳では、八千石の知行を有し、御一門衆として里見家臣団のなかでずばぬけて大きな知行を与えられていた。里見家改易後は忠義とともに倉吉に行き、忠義の死後は鳥取藩池田光政に預けられ、寛永九年に同地で没したという。一方、時忠の家は時通が跡を継いだ。時通は父とともに各地に転戦した。時通には子が無く、小田原北条氏のもとへ人質となっていた弟の頼忠が安房に帰って養子となった。そして、父時忠、兄時通が相次いで没してのちに家督を相続し勝浦城に住した。
 天正十八年(1590)、里見義康が豊臣秀吉から上総国を没収されて安房一国になったとき、安房に帰り入道して環斎と号した。慶長期には、長狭郡八色村・丸郡平磯村・加茂村のうちで千石の知行地を与えられた。 頼忠には数人の子があったが、人質として小田原にあった時、北条氏隆の娘との間に為春・於万兄妹をもうけた。この於万は徳川家康の側室となり、紀伊頼宣・水戸頼房を生んだ。そのため、兄為春は家康に召されて紀伊頼宣の家老となった。里見家改易後、頼忠は紀伊におもむき、為春の許で一生を終えたという。為春の家は、のちに三浦を称し、紀州藩の家老として幕末まで続いた。」
長くてごめんなさい。これで徳川家康の十一男である松平頼房が常陸国下妻10万石を与えられ家を興す。1636年(寛永13年)7月、徳川姓を賜姓される。つまり、水戸家はここから始まるのである。
さらに、水戸家第六代藩主徳川治保の子、松平義和が高須松平家九代藩主となる。

その高須藩の第10代藩主・松平義建には子が多く、次男は尾張藩第14代藩主・徳川慶勝となり、三男は石見浜田藩主・松平武成となり、五男は高須藩第11代藩主・義比となった後に、尾張藩第15代藩主・徳川茂徳、さらに後には御三卿・一橋家当主・一橋茂栄となった。七男が会津藩主・松平容保で、九男が桑名藩主・松平定敬と幕末に活躍した藩主となった。十男・義勇は高須藩第13代藩主となっている。

さあ、どうです。これで水戸家、尾張、会津、一ツ橋家すべてにお万の方の「お種」が行き渡ったことになる。

そして松平容保ですな・・・・。WIKIから・・・「正室・敏姫は養父(実の叔父でもある)松平容敬の娘。子は松平容大(長男)、松平健雄(次男)、松平英夫(五男)、松平恒雄(四男)、松平保男(七男)。養子に松平喜徳。現在、徳川宗家は直系、徳川慶喜家、尾張徳川家は傍系で、血統上は容保と同系である(四男恒雄の子孫)。」
で、問題はこの4男、恒雄ですが・・・・「日本の外交官、政治家。外務次官、駐英大使、駐米大使、宮内大臣、初代参議院議長を歴任。1928年(昭和3年)、長女・節子(成婚後「勢津子」と改名)と秩父宮雍仁親王の成婚が突如決定する。これは戊辰戦争以降の「朝敵」・会津の復権に役立つ事にはなった」
とある。
あーあ、お疲れ様。しんどいけど仕方がない。要は、紀州家はともかくとして、おおむね徳川家の主要部分をお万が独占したことを説明した。
このことから何かがわかるのか?それは今後の課題です。今日は下調べですよ。
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by sibanokuni | 2010-03-31 10:02 | マヨちゃんの古代史

おまんのかたとは

とりあえず水戸藩から調べてみようか。というのも、御三家だったかはともかくとして、普通ではない役割を担った水戸藩の成り立ちから調べる必要があるのかも・・・。

手短なところでWIKIで水戸藩を見ると・・・「常陸は戦国大名佐竹氏が豊臣秀吉によって支配をそのまま認められていたが、関ヶ原の戦いの際54万石の佐竹義宣は徳川方に加担しなかったため、慶長7年(1602年出羽秋田(久保田藩21万石)に減転封された。佐竹氏の後、水戸には佐倉より徳川家康の五男武田信吉が入ったが(15万石)、翌年1603年に信吉が急死し、続いて家康の十男徳川頼宣が入る。1609年、頼宣の領地が家康のお膝元駿府に移され駿府藩が成立すると、頼宣のあとに同母弟の家康十一男徳川頼房が25万石で入った。」・・・いずれにしても10男、11男だって、すごいな!

まず、「お万の方」が生んだんだよね。調べましょう。

「 勝浦市史資料編から引用
 養殊院は徳川家康の側室で、上総国の正木邦時(頼忠)の娘である。のちに蔭山長門守氏広の幼女となっ たとも伝えられるが、明確ではない。しかし、「蔭山殿」と呼ばれていたことを考えれば、蔭山氏に寄寓したこ とはほぼ疑いないところであろう。紀州藩祖である徳川家康の第十子徳川頼宣および第十一子水戸藩祖  徳川頼房を生んだ。元和二年(1616)家康没後に剃髪して、養殊院と称したとされる。
 この日に至るまで、確実な資料の上では養殊院の名が確認できない。天正八年(1580)に起こった「正木 憲時の乱」によって「お万布晒し」の伝承が生まれているが、史実かどうかは明らかでなく、彼女の幼年から 成人するまでの動向を知ることは、かなり困難であるといえよう。なお、養株院の兄は三浦為春である。為  春は、慶長初年に正木の家名を三浦と改め、同九年に長福丸付となった。三浦家は、のちに紀州藩の家老 となっていった。」
このお万で特記すべきことは、相当な日蓮信徒だったことだ。

さて、もう一度高須藩を見てみると、「、第10代藩主・松平義建には子が多く、次男は尾張藩第14代藩主・徳川慶勝となり、三男は石見浜田藩主・松平武成となり、五男は高須藩第11代藩主・義比となった後に、尾張藩第15代藩主・徳川茂徳、さらに後には御三卿・一橋家当主・一橋茂栄となった。七男が会津藩主・松平容保で、九男が桑名藩主・松平定敬と幕末に活躍した藩主となった。十男・義勇は高須藩第13代藩主となっている。」
ところが、高須藩は九代目を継いだのは水戸治保の次男、義和であり、結果、水戸家は一橋家、尾張家も手に入れている。徳川慶喜が一ツ橋家出身といっても「お種」的には水戸納豆なのである。

ようは、水戸藩、そして紀州ともに「お万」から始まり、幕末にはその血筋が徳川全体を支配したといえよう。

別の資料からもう少し、お万は「天正5年(1577)勝浦城主正木頼忠の子として生まれました。幼名を養珠といい、父母の慈愛を一身に受けて育ちました。北条氏が滅ぼされると、その支配下にあった勝浦城も家康の派遣軍に攻められ落城。14歳のお万の方は、母と一緒に40メートルもある八幡岬の断崖に白い布をたらして海にのがれました。一行は、母方の住む伊豆に身を隠しました。流浪の旅の行く先々では、お万の美しさとかしこさは、村人たちの目をみはらしました。その後縁あって、お万の方は家康に見染められ、側室となり二子をもうけました。一人は後に紀伊家を創設、もう一人の徳千代は水戸家の祖徳川頼房となりました。水戸黄門で知られる光圀はお万の孫にあたります。」

なんと、出自は北条氏系なのである。家康に亡ぼされたはずの正木一族(北条氏?)が300年かけて徳川幕府を終わらせたのである。ん?偶然?

さあ、タカス族が存在するとしたらこの「お万」しかない。家康は無類の人妻好きとか・・・、お種を仕込んだまま側室となり、そうとも知らず家康はお万の子供を要職に付け、時代が下るとともに知らないうちに全部を乗っ取ってしまうのである。

この考察は怖いな・・書くの止めようかな・・・・。
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by sibanokuni | 2010-03-30 06:23 | マヨちゃんの古代史

高須は松平?

昨日取り上げたタカス族というのは落合氏も半信半疑の話であるし、その後、その件には触れた気配はない。
というより、現代にも影響を及ぼしかねない事柄を含むため多少遠慮があったとも想像してしまうのである。

しかし、美濃高須藩松平家があの秩父宮妃、松平勢津子妃殿下を出した松平恒雄につながり、さらには徳川宗家の当主、恒孝の実祖父になったのである。しかし、それは尾張藩から知らないうちに水戸家に移行していたのだった。この経過を説明するのはなかなか大変。もちろん、WIKIでひとつずつ追っていけばつながっていくが、もとより正規な系図が正しいとは限らないし、時間がいくらあってもキリがない。
ここはなぜ松平なのか?から考えてみよう。
徳川が松平姓を徳川に変えた理由はいまいちはっきりしないが、単純に考えれば松平ではなかったからだろう。おそらく松平の当主が突然死に、困った松平家臣団が家康に頼み込み、すりかわったのである。もちろん家康が松平を殺し、乗っ取ったという考えもありで、長男と正室を後に殺しているのだから、むしろその方が可能性が高いのかも・・・・。そして昔、現在の豊田市は西加茂郡と呼ばれ、いわゆる賀茂氏の所領だった。また、美濃も美濃加茂市があるぐらいで、やはり賀茂氏である。おそらく賀茂氏というのは皇室との関係が極めて深いから日本建国以前の支配者支族だったはずである。やはり、現在まで松平氏が残っているのは徳川家とは混じっているように見えても、別にその主家としての血流が保存されていたと見るべきではないか。つまり、徳川家は実は松平家の家臣であり、実質は松平家の裏支配であったと・・・。
徳川の出自はこれまでも何度も考察してきたが、徐々に精度を増してきて、やはり今の段階では単にトーナメントを勝ち上がってきた運の強い武将だったという偶然説よりも、新田の血を引く天皇のお庭番的な存在だったとするほうがマヨ理論に合致するようだ。つまり、偶然ではないのである。

秩父宮妃は松平姓で、高松宮妃は徳川姓である。しかもお互い親戚で、しかも徳川宗家とも密接につながっている。一時は朝敵になった会津藩主が明治以降名誉を回復し、皇族の外戚になっていくのである。
これを「タカス」の手法とするならかなりすごいし、この話は深く秘さねばならぬだろう。(殺されるぞ・・・・)
確信は持てないものの、家康が徳川家が立ち行かなくなったら水戸家から主君を出すよう遺言したのは、表に出せない深い理由があったことは間違いない。そこにおそらく家康の出自に関わる大きな秘密が潜むのではないか。
難しすぎて・・・・・何を書けばいいのかわからないが、考察は続けましょう。
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by sibanokuni | 2010-03-29 06:15 | マヨちゃんの古代史

読んでびっくり

昨日は弘法さまへ行くつもりが、テレビ映画や撮ってあった番組を見たりで、結局出かける事を中止してしまった。ひつじさんからお預かりしている宗像教授はとりあえず第一巻は読み終わった。マンガとは言え、かなり読み応えがあり、普通のマンガより時間が掛かるな。一番最初の「白き翼」はよく出来ている。ヒッタイトの鉄器文化が神話・伝説を伴いながら世界に広まり、その伝わる経路に白鳥処女説話が残されたという仮説なのだ。もちろんこの本はフィクションであり・・・・、と断りが付いているので、信じる必要はない。ただし、「マヨ理論」と同じで、本人は真実だと信じている話にフィクションで肉付けしている。逆に言えばフィクションではあっても作者が伝えたいのはそのストーリーの中に埋め込まれた真実を知って欲しいと言う事だろう。問題は上手にストーリーを作っているので、フィクション部分と真実部分が区別出来なくなることだろう。
白鳥に付いては少なくとも本人は真実と思って書いている気がするし、なかなか面白いと思う。

私の書いている小説は自分としては真実を書いているつもりで、どうしても不明な部分を憶測で埋めると言う方法を取っている。宗像教授は「問題提起部分」は私と同じだが、後はやはり漫画家としてのサービス精神が大きいかな?ただ、著作として膨大であるだけに作者にはかなりしっかりした歴史観がある様に思われる。全部を読まないことにはわからないが、追々考察することにしよう。それにしても良くぞこれほどたくさんの仮説を考えるものかと感心してしまう。
私の読者の中にこの星野之宣氏のファンが少なからずいる事を知り驚いた。私に劇画を書く才能があったり、長編小説を書く力があればきっと同じ事をしたと思う。歴史の真実を追究しブログで書くより、小説や漫画に描く方がはるかに説得力があるし、最後は「フィクションですから・・」と逃げればケンカする必要もない。うーん、星野氏は賢いな。それにしてもひとつの疑問に対し、あっと驚く仮説を立てている点、なかなか出来ることではない。とりあえず、読んでビックリしたとお伝えしておきましょう。
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by sibanokuni | 2010-03-22 07:07 | マヨちゃんの古代史



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