シバちゃんのため息

カテゴリ:マヨちゃんの古代史( 106 )

コスモという車

昨日本を読んでいたら高句麗の始祖、朱蒙に「高(こ)朱(す)蒙(も)」つまりコスモと振り仮名がうってあった。ちょっとショックだった。前は「しゅもう」と読んでいて、韓国ドラマでは「ちゅもう」と発音すると知った。そうなのだ、あまりこだわることはなく、むしろみんなが読んでいる読み方に縛られては返って何もわからなくなるのかもしれない。
額田でも「ぬかた」ではなく「がくでん」と読ませていたという。伊達がどうして「だて」とよむのか、和泉がどうして「いずみ」なのかなどのように、読み方にはそれぞれ理由があるはずなのだ。地名・人名にはまだまだ謎が多いのである。
読み方を強制することで実体を見えなくしている可能性は大いにある。古代史ではそのようなことは当たり前ではないか。

さて、「コスモ」と言えば、かつてロータリーエンジンで世の中を驚かせたマツダのスポーツカーである。私はその当時中学生だった。マツダの社運をかけて発売された新車に当時の松田社長はとっておきの車名、「コスモ」と名付けたのである。
なにか理由があるのではないだろうか。マツダというのは「末羅国」や松浦につながる。広島の広は「こう」で高句麗である。さらに呉という軍港は「くれ」、つまり高麗そのものである。
私は以前からこの安芸近辺の歴史が気になって仕方がないのだ。会社が傾くほどの開発費をつぎ込み大変な苦労をして発売されたロータリーエンジンは根本的な欠点、つまり高燃費を解消できず今は細々と生産されているに過ぎない。残念なことである。しかし、大変な開発費をつぎ込み、多きなる野望をいだいた松田社長が高句麗を建国した英雄の名を車につけたと考えると、なぜか熱い物を感じるのは私だけであろうか。
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by sibanokuni | 2010-03-15 06:15 | マヨちゃんの古代史

烏孫とは?

たくさんのコメントをいただいていて、ちょっとした掲示板状態。せっかくだからそっちを伸ばしていきましょうか。と言って、たまにはこちらも更新しなければなりませんので、少々書きましょう。

記事にするほどの考察をしているわけではないので、ほんの書きかけ項目という感じですが・・・・・。

加治木さんの本で問題なのは、卑弥呼が烏孫族で、ギリシャ系の金髪美人?(美人とは言っていないが・・・)だったとしていることで、私が知る範囲では烏孫とギリシャとの関連はまったく見えてこない。しかし、彼は調べつくした結果、そのような結論に至ったとしている。簡単にこれを否定しては彼の研究に対し失礼であろう。

彼は「謎の天孫降臨・・」で、「鹿児島の東半分は「大隈」であることは常識だが、これは現地の発音では「ウースン」である。・・・本来は「呉孫」、すなわち「三国志」の呉の皇帝・孫権(すんきん)一族から来た地名で、彼らの集団は元は揚子江を下ってきた「烏孫」(ウソン、ウースン)人だという名乗りから来ている。この烏孫人はギリシャ系の地中海人で、金髪の人も混じっていた。私は卑弥呼が金髪だったと付きとめたのは、こうした人々の歴史をバビロン、シュメール時代までさかのぼって明らかにしたからである。」

本人はもちろん固く真実だと思っていると思うし、極めて重大な内容ではある。今のところ私はすべてを信じるには至っていない。なぜなら「烏孫人はギリシャ系の地中海人」であってもまったく不思議ではないが、裏づけをどのように取ればいいのだろう。

従って順序としてまず烏孫から調べることにしよう。
もちろん烏孫という国名?は聞いたことぐらいはある、しかし、私にしてもそれらは匈奴やフン族との区別はまったく不可能で、消滅した多くの国のひとつに過ぎなかったのである。
一応wikiでチェックすると、「烏孫(うそん、拼音:wūsūn)は、紀元前3世紀頃から6世紀頃にかけて、イシク湖周辺(現在のキルギス)に存在した遊牧国家。月氏、大夏、スキタイ系のサカ族等とは民族・文化・言語において近縁な関係にあった。」とあり、地域的に言えばまさに中央アジアのど真ん中にいた部族ではないか。

そして、興味深いサイトに出会うことができた。ここには烏孫はウラル・アルタイ系のチュルク人とあり、私からすれば匈奴そのものである。もちろん匈奴と戦ったとあるから細かく言えば区別しなければならないだろうが、実態はほとんど同族同然だったのではないか。それにしてもこの烏孫がギリシャ系だという加治木さんはなにを調べたのだろう。私の読んだ範囲ではわからない。「黄金の女王・卑弥呼」を読めばわかるのだろうな・・・。もう5冊も読んで、さらにまた一冊買うの?いいかげんに勘弁して欲しいな・・・。
まあ、ギリシャ系はないわけではない、というかあってもいい。しかし、この烏孫が滅び、揚子江を下り呉の孫権になったって?うーん、そして台湾へ行き、それから沖縄へ行き、そして九州へたどり着き卑弥呼になったと・・・。長いな・・・・、でもまったく根拠もなしに言うわけはないからしかたがない、「黄金の卑弥呼」を買うかな。え?誰だっけ、その本買ってたよね、「月のひつじ」さんだっけ?

それはいいけど、先ほど紹介した記事に狼伝説の話が書いてある。狼といえば言うまでもなくチンギスハーンが有名だ。私としてはむしろモンゴル経由で満州を経て日本列島へ来た方がありがたいのだが・・・・、この烏孫の建国神話は檀君神話にもよく似ているし、宇佐八幡の神事にも籠に入れて海に子供を流すような話もあり、興味深い。
とにかくシルクロードに関わる話は文献も少ないし、この先どうやって調べようかな。でも、確かにこの烏孫人というのはキルギスに居たというだけにここ急速に注目されつつあることは間違いない。
とりあえず、問題提起にしかならないけど、書いておきます。情報を求む。
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by sibanokuni | 2010-03-13 09:58 | マヨちゃんの古代史

倭寇は日本人?

matsuさんに教えてもらい録画してあったNHKの朝鮮の歴史シリーズのなかで、まだ見てなかった一本、「倭寇」編をようやく見ることが出来た。なにせ一時間半みっちりなのでなんとなく見る機会がなかった。matsuさんごめんなさい。
「倭寇」は朝鮮半島を中心に活動していた、いわば海賊で、おおむね13世紀から14世紀に活躍?したみたいだ。学校で習ったよね。この倭寇のおかげでいまだに朝鮮半島では日本人を恨んでいる人がいるのだろうかな・・・。でもマヨ理論で行くと倭人というのは必ずしも列島の住人を意味するわけではなく、半島から列島の西半分を含む大きな連合体の住民の総称だったはずである。このことはほぼ誰も異論はないはずだ。しかも当時は国境などないのである。
倭寇の「倭」の字はともかくとして、「寇」の字を見ると「元を憂鬱にさせる」とも取れる。当時の朝鮮は高麗王朝だが、モンゴルに屈服するまでずいぶん長い間戦争があり、もともとの軍人は半島から追い出され、チェジュ島や対馬、壱岐、さらには列島などへ逃げ込んだと考えられる。
wikiを見ると前期倭寇のドンは「阿只抜都」だったという。「あ・き・ば・つ」である。私のこじつけでいうなら「安」「魏」「拓跋」である。これをもう少し進めるなら「安芸」を本拠にした拓跋族、すなわち鮮卑軍ではないか?ちょっと無理?そうか・・・、無理かな・・・。でも安芸や厳島、呉あたりには大きな秘密があると思うのだが・・・。
wikiには、「倭寇の被害を中心的に受けていた高麗では1376年には崔瑩が鴻山で、1380年には、李成桂が荒山、崔茂宣、羅世が鎮浦で、1383年には鄭地らが南海島観音浦で、倭寇軍に大打撃を与え、1389年の朴ウィによる対馬国進攻では、倭寇船300余隻を撃破し、捕虜を救出し、その後、町を焼き討ちして帰還した。これ以降倭寇の侵入は激減する。倭寇討伐で名声を得た李成桂は、高麗王朝を倒して李氏朝鮮を建国した。」・・・とある。もっとも最終的には中国人の海賊が倭寇の名を語ったことが多いと言われるから当てにはならないが、少なくとも前期の倭寇は私的には日本人と言うより半島や列島に隠れていた倭人だったと思うのだが、どうだろね。まあ、あまり難しく考える必要はないけれど、テレビを見ながらそんな事を考えました。
日本というのは遅くとも7世紀に成立していたから、本来なら日寇が正しく、倭というからには高麗にも日本にも属さないいわば海のサンカ?ともいえるのである。前期、後期ではかなり役割が変わっていくので一概には言えないが、倭人としか言えない事情が両国にあったのだろう。
もう少し言うなら高麗を倒し、王朝を打ち立てた李氏は何者?という事になるな。なかなか朝鮮の歴史も難しい。
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by sibanokuni | 2010-03-09 06:05 | マヨちゃんの古代史

加治木さんへの中間報告

ツランを研究したいとは思うが、なにせどこから手を付けてよいやら・・・という状態であります。先日東京の中村さんからいただいたCDの地図のなかにすばらしい物が載っている。しかし、これがまた全部ロシア語で、テキストなら翻訳可能だが、画像では取り込むことは難しい。では、キーで打てば・・・といってもそのキーがない。
安いロシア語の電子辞書でも買おうかな・・・・。あと、ロシア語の翻訳ですが、いきなりロシア語から日本語へ翻訳するよりも、一旦英語に変換し、それから日本語へ翻訳するほうが修正し易いかもしれない。なんといっても英語なら比較的わかるからね。
とりあえず、目先の難題を片付けないと・・・つまり加治木さんだ。

毎日毎日、ずーっと加治木氏の本を読み続けている。中身が濃いこともあるけど、はいそうですかと言うわけにはいかないところもあるから、何とか彼の弱点を見つけてやろうと思っているのである。しかも5冊まとめて読んでいるから頭の中は大変なのだ。

一番気にかかるのは韓半島の地図がいまいち描けていない事である。帯方郡の場所は他の歴史家と同じく一般的な地域、即ち現在の北朝鮮付近と考えているようである。すなわち遼東にいた公孫氏を滅ぼす時、まさしく公孫氏は帯方郡を占拠していたはずであり、一般的な地図によればそれは遼東ではなくなってしまうのである。私の理解では公孫氏は満州にいたのであり、韓半島には居なかったのだが。
それから卑弥呼が朝貢したのは魏志によれば公孫氏が滅びる直前の238年である。ところが彼の作成した年表には239年、公孫氏が滅びた後に帯方郡へ使者を送ったとしている。事実はこれで間違いないとは思う。しかし、魏志には238年と書いてある以上、なぜそのような書き間違いをしたのかを考える必要がある。彼は中国の史書に誤りはないと断言している。だからこそ邪馬台国なのか邪馬壱国化を明確に区別するし、倭国と俀国はまったく別のものと主張している。
私は景初2年と書いた事を魏志の意図的な間違いと考えている。だからこそ隋書はそれとなく間違いを指摘するため、わざと俀国と書き、さらに「公孫氏を滅ぼすや卑弥呼が朝貢した」と訂正したのではないか。中国の史書が絶対に正しいとは限らないのである。彼の「黄金の女王卑弥呼」を読めば書いてあるかもしれないが、もうこれ以上加治木さんの本ばかり読む気にもならない。

彼の大化の改新と白村江の戦いに関する考察はなかなか見事で絶賛に値する。正直、目からうろこと言ってもいいだろう。しかし、高句麗と唐が戦い、唐は大敗するのだから、実際、唐の援軍がわざわざ瀬戸内海まで進軍し、九州から北上した新羅軍と力を合わせ倭国を滅亡させたと言うのはどうしても納得ゆかない。韓半島のほとんどは空っぽだとでも言うのだろうか。彼は百済の本体は大阪にあり、半島の百済はほんの出先機関だったという。しかし旧唐書のどこにも日本まで遠征したとは書いていない。また、百済は小国で半島の先端にあったという、だとしたら高句麗を攻撃するのに百済を亡ぼす理由は何もなくなる。

彼は九州の鹿児島には高句麗や百済の地名がたくさんあり、高句麗や百済、そして新羅が九州にあり、半島へ攻め込んだと言う動かぬ証拠だとする。しかし、逆もあるのではないか?高句麗の水軍が種子島に集結し、そこから九州へ進出したと言うのもあるのではないか。

日本の天皇と高句麗、百済、新羅の王でどう考えても同一人物がたくさんいるという。これは私も以前から指摘しているが、彼は倭国がそれらを支配していたからだと主張する。しかし、これもまた逆もあるのではないか。

シャカ族はすべて南方から来た仏経伝道集団とするが、同じ様にシルクロードを通り攻め込んできたスキタイ族のやはりサカ族、すなわちシャカ族なのだから、すべてインドから来たわけではないのではないか。

彼は垂仁天皇は高句麗の位宮であると述べている。これが神武だという。これは卓見で、すばらしい。しかし垂仁の次の次が応神天皇になると言う。それはすなわち高句麗族のはずだ。しかし彼は百済だと言う、これは理解できない。

倭の五王と日本の天皇との対応は実に見事で文句のつけようがない。ただし、彼らの君臨した地域、そして属性に関しやや意見が異なる。といっても、彼の意見を否定する材料がなかなか見つからないのも事実なのである。彼は満州地域からの流入をまったく否定しているが、日本海側の各地域に満州地域から渡来しているのは歴史的事実であるから、これを否定して正しい歴史が描けるとは思えない。彼はすべてが南方から来たものとして日本史を完成させようとするが、高句麗、渤海、北魏等が頻繁に日本へ渡来している。

韓半島に日本語の痕跡があることで倭国が韓半島を支配したと決め付けるのはやや無理がある。逆に万葉集には韓国語があふれているのである。ましてや古代、高句麗や契丹の言語は今は失われていて、彼らが原日本語を話していた可能性は捨てきれない。それが日本人が高句麗を支配していたと見るか、高句麗人が日本を支配したと見るのかは歴史を語るものの主観に過ぎない。つまり、同族に違いないのだから。
新羅、百済の出現が謎に満ちていることは確かで、それが列島から出発したのかもしれない。しかし、当時、倭国は列島西部から半島に渡る広い地域をカバーしていたのであり、どちらが始まりなのかは現在の国境を定めたことに原因があり、古代においてそれは何の意味もないのである。

いろいろ書いてきたが、加治木説との相違点を書き出しているのであり、私が絶対に正しいと書いているのではない。とりあえず、問題点を書き出し、今しばらく研究するつもりなのである。
したがって、これが済むまでトルコやツランについて研究する暇が取れない。早くけりをつけたいけど、私の研究の根源でもあるので簡単には済ませられない。
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by sibanokuni | 2010-02-25 06:28 | マヨちゃんの古代史

藤原氏の考察

さて、今日は藤原氏に迫ってみる。その前に加治木説を説明しておこう。彼は大化の改新はなかったといい、実は天智天皇の倭国征服の記録であり、その征服の記録は神武の東征に記されているとしている。私も同様に考えていたのでまったく同意するものである。もちろん天智が新羅王、金春秋だと言う点でもピッタリと一致している。ただし、淵蓋蘇文の扱い、その他違う点は無きにしもあらずだが、細かいことはこの際無視していこう。
一番の問題は神武とニギハヤヒの出会いである。これが天智と孝徳天皇に当たるはずだ。しかし、そう簡単ではなかった。
ナガスネヒコは自分の妹をニギハヤヒの妃とし、子供としてウマシマジをもうけていた。そしてウマシマジ(ニギハヤヒ)は神武に降伏し、トビノ・ナガスネヒコは逃げたのである。
これを天智天皇に当てはめると、実は逃げたナガスネヒコが孝徳天皇であり、ニギハヤヒは天智に協力した藤原の鎌足である。そして天智は孝徳の皇后を自分の妃にし、さらにその娘(連れ子?)は天武の嫁となり、その後、皇后が持統天皇になるのである。lこれらの証明はそれほど難しくはないが、「TAIKA」を読んで貰うしかない。ここではそれを証明するのが目的ではなく、藤原氏のことである。

つまり、加治木さんは藤原氏をニギハヤヒ一族だと言っている。そして藤原は「百(ホ)済(ゼ)倭(ワ)国(ラ)」と解き、鎌は「こま」、足「たり=王」で、大阪百済と倭国と高句麗の王だったと言うのである。

おそらくは孝徳は茨城まで逃げ、そこで殺され鹿島神宮に祀られたのではないか。
さて、蘇我氏というのは家系と考えるとわからなくなる。つまり、シャカ族、すなわちスキタイ族と考えるのである。この家系の女が代々倭国の女王を生み出していた。だから天智は孝徳の皇后を娶り、天武は皇后の娘を皇后にしたのである。そして持統天皇、元明、元正と続き、得体の知れない不比等の娘、宮子、そして光明子を皇后として送り込み、代々皇室の婚姻家系になったのである。つまり、藤原氏が蘇我氏に代わり、女性天皇を生み出す家系になったのである。

少なくとも日本を建国した天智も、それをひっくり返した天武も倭国の先住民をなだめるのは女帝を立てなければ納得しなかったという事である。問題は現在もそうなのか?という事だが・・・・、さあ、誰に聞けば知ってるのだろう。しかし、もしそうであるなら男子天皇は誰でもよく(失礼!)、大事なのは斎宮だったのか?
でも現在斎宮はない。どこにあるのだろう・・・・。
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by sibanokuni | 2010-02-20 09:58 | マヨちゃんの古代史

途中経過ですが・・・・

一言お断りしておきたい。現在、毎日加治木さんの本を読んでいる、何度も読み、完全に納得したいと思っている。しかし、あくまでも私には私のマヨ理論があり、それに固執するつもりもないが、全部捨てるつもりもない。
要は、すばらしいこの加治木説を読みこなした上で、なんらかのほころびを見つけ、それを追求するなかで、さらに日本史を解明したいのである。卑弥呼が九州にいて、さらには南方から流れてきたとするのは私にとってはキリスト教からイスラム教へ改宗するほどの大転換なのである。しかし、改宗したふりをしてみようというのである。
ただし、天照様が宮古島から来たというのは実に楽しい話で、それなりの遺跡もあることだし、これは当分日本史の前提として考えても良いと思っている。
卑弥呼が九州にいて、それが天照さんと同体だというと、いきなり日本史の年代は極めて浅い歴史になる。かといって、古代から列島にはたくさんの人間が生息していたのだから、単に統一した政府がなかっただけでそれほど悩む必要はない。でも、同体かと言うと・・・やや寂しいな。

加治木氏の歴史は西日本の歴史書であり、日本書紀、古事記の世界である。この世界にウラル・アルタイ語が入ってきた痕跡は認められない。つまり、それは卑弥呼の時代よりはるかに昔の出来事である。なぜなら南方からいろいろな人々が移住してこようが土着していた言語の根本を覆すことはなかったのであるから。
日本が成立したのは天智天皇の頃、670年としているが、そのころ近畿地方の住民は毛人と表現され、ヤオ人とか、イナ人とも言われる。彼らは逃げる必要もないため、言われるままに従ったのだろう。しかし、倭国支配層や大阪・百済国人は必死になって全国へ散ったのである。先日も言ったように尾張はアスカ人の王族が逃げ込んだ地域であり、さらに中央線に乗って、木曽や信州へ逃れたのである。つまり、善光寺とは百済王が逃げ込んだ亡命地だったのである。さらに、仁徳天皇、雄略天皇ら倭の五王、その他、姓氏録に載っていない王家の子孫達はそれぞれ同族の住む地域に逃れ再起を期したのであろう。
しかし、持統天皇がどんでん返しを演じ、日本は再び倭国を再建することになるが、これがおそらく百済朝だったのだろう。つまり、全国に散った部族のうち、百済関係者は勝ち組になり、倭国はいまだ負け組だったようだ。問題はこのあとだな・・・・、平城京の頃には倭国が相当復活したように思えるから・・・。
やはり、持統天皇が天武政権、つまり「ヤマト」を転覆させるには、それなりに旧倭国の軍勢の応援が必要だっただろう。つまり、男性天皇である倭国にヤマトを撃たせたのだ。
うーん、むずかしいな・・・。やはり、キーは光明皇后にある。安宿姫だ。これこそ女大王だぞ。
昨日の話の続きになるが、男性天皇は百済系に受け継ぎられ、祭祀専門の女性天皇はアスカ系で受け告げられたという事かな。とりあえず、今日はそうしておきましょう。
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by sibanokuni | 2010-02-18 09:18 | マヨちゃんの古代史

見えていない天皇とは?

ちょっと思いついたことを書きます。ひょっとすると大変なことかも・・・・。

こんなことが書いてあった、「天照大神は実は男神で、女性の天照大神は本当は「斎王」のことだという説があるが、天智天皇の祖先である位宮=垂仁天皇が、壹與を女王に立てて卑弥呼政権を倒すのに使ったことと一致する。」(謎の天孫降臨と大和朝廷の秘密p108より)
卑弥呼が女王なのに、別に弟王がいたことは魏志倭人伝にも見えているし、それを亡ぼした垂仁天皇は壹與を女王にしなければ国が治まらなかったというのは、倭国には古来より二重支配構造があったのかもしれない。我々は伊勢にある斎宮は伊勢神宮を祀るため、天皇の皇女がそこへ送られていたと教えられている。私は逆に天皇家の人質という考えを持っていた。しかし、これはひょっとすると相当不思議な考え方かもしれないが、我々が現在天皇陛下とお呼びするのは男子天皇であり、これとは別に女の天皇がいると考えてみるのはどうなんだろう。
天武天皇は天智の建てた日本国を乗っ取ってり自ら天皇になり、さらに伊勢に斎宮を置き、女性天皇を即位させ、世の中を安定させようとしたのか?やはり、女性の天皇が必要だったのでは・・・・。

現在女系天皇に関し議論が盛んである。愛子さんが天皇になったとして、過去にも女帝はあったわけで、愛子さんが即位した時点で女系となるわけではなく、愛子さんが結婚し生まれた子供が天皇になるとき女系になるのである。つまり、とりあえず愛子さんが即位すること自体、それほどとやかく言う必要はないのである。なのに、この問題にたいし非常に深刻な受け止め方をするのは・・・・・ひょっとして、日本には我々の知らないところに女性の天皇がいたりして・・・・・。仮に、どこかに女性天皇が君臨しているにもかかわらず、表の天皇が女になったらえらい事になるのではないか?
倭国が転覆して日本が建国され、持統天皇、元明、元正と女帝が続き、その後、聖武天皇以降は男性天皇になる。つまり、このころ倭国の天皇制が復活し、安宿姫が女性天皇になり、それ以降、女系の天皇は万世一系で、男子については怪しげなときもあったのではないか。
持統天皇というのは卑弥呼の「女性天皇の種を持って統べる」と言う意味かも・・・。

南北朝で皇統がズタズタになったにもかかわらず万世一系は保たれたと言っている。足利義満の息子が天皇になったとの話もあるし、明治天皇のすり替え説もある。なのに、自信を持って万世一系を主張する人たちにはなんらかの確信があるのだろう。つまり女系では万世一系であると・・・・。
我々はまぼろしを見ているのかもしれない。先日も王統、皇統の論議があったけれど、誰もその違いを述べる事はできなかった、ただ、全然違うと言うだけで・・・・。
加治木さんは倭国にはインドと同じカースト制があったという。つまり、最高カーストのブラフマンには祭祀者としての女性天皇がいて、クシャトリアとして権力者の男子天皇が。
つまり、宮古島に女帝としての天照大神が降臨されて二千数百年、ブラフマンたる女性天皇は万世一系であったのである。
ほんの思いつきだから、あまり深く考えないで下さいね。
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by sibanokuni | 2010-02-17 06:05 | マヨちゃんの古代史

伊勢神宮は卑弥呼と壱與を祀ったの?

昨日、加治木さんの本が届いた。私としては5冊目で、いままで読んだ本を十分読みこなしていないのに、つい新しく着いた本を先に読んでしまった。「YAMATO」と言う副題がついた「謎の天孫降臨と大和朝廷の秘密」という本である。(900円はとても安いな・・・・)
正直言うと、とても大変な本である。一部認めがたいことや、事実誤認ではないかと思うことがないわけではないが、おそらく大筋でヤマト王朝の成立秘話を解くものでこれ以上のものはないのではないだろうか。
ただし、これがすべてではないことだけを承知の上、ぜひ皆さんも読んでいただきたい。そして、この本の中のいくつかの点で議論がしたいものである。
なかなか濃い内容なのでダイジェストにしてお伝えしたくても難しいのである。加治木氏は騎馬民族征服説の否定と、邪馬台国近畿説を否定するためにこの本を書いているため、逆に言えば満州方面からの渡来をすべて否定し、すべてが南方からやってきた部族としている。
そのわりには高句麗王・位宮(琉球出身であるとのべるが・・・)が垂仁天皇になったといっているのだが・・・。
また、白村江の戦いは大阪で起きたことで、百済(大阪)を日本が征服したとしている。つまり、日本・天智=新羅・金春秋が鹿児島から出発し、神武東征の行程で大阪へ上陸し、その後近江へ入ったと言う。
という事は、応援部隊が唐であり、唐の軍部がわざわざ日本まで遠征したと言うのだろうか?だったら旧唐書にその事情が載っているべきだし、日本の使者にたいしあのような疑問を呈することはあるまい。

まあ、細かいことはさておき、伊勢神宮に祀られているのが卑弥呼と壱與で、しかもその壱與は新羅の始祖だという考察はなんとも衝撃的である。しかし、考えてみると大いにありそうである。
何度も繰り返すが、この本の中で高句麗との関係がほとんど抜けている。この点だけを頭に入れて読んで欲しい。ほぼ完璧に思える加治木説だが、まだまだ屈服するわけには行かない。
そして最大の相違点はスキタイ族である。確かにインドへ向かったアーリア人がシャカ族となったのは認めるが、匈奴や突厥になったのも同じ部族である。インドから来たシャカ族は仏教徒で、シルクロードのスキタイは拝火教やゾロアスター、ミトラである。このあたりの扱いにやや疑問が残るのである。

さて、昨日の穴太衆に対して追加しておくことがある。昨日の「曹氏」に関してだ。森安孝夫氏の「シルクロードと唐帝国」からの引用です。p108
中国に来住したソグド人は、漢文書による行政上の必要から漢字名を持たされたらしく、その出身都市名を示す漢語が姓として採用された。」として、「康国はサマルカンド、安国はプハラ、米国マーイムルグ、史国キャッシュ、何国タシャーニャ、曹国カブーダン、石国タシケント、畢パイカンド」に由来する「康、安、米、史、何、曹、石、畢」という姓である。
もちろん、古来の姓と区別出来ないものもあるので注意が必要だと述べている。問題はそのカブータンだが、ジンギスカンの遠征時に完全に破壊され、今では名前も都市も失われているようだ。いずれにしても現在のウズベキスタンにあったのである。中央アジアのあまり有名ではないこの地域を中心に世界中を交易していたこのソグド人が、我々の考えるユダヤ商法とほとんど同じであることに注意して欲しい。私から言わせれば、彼らこそ失礼な言い方だが、元祖死の商人に違いないのである。
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by sibanokuni | 2010-02-16 06:30 | マヨちゃんの古代史

「あなた」は誰なの?

穴太衆に関し、いくつかのコメントが来ています。返事代わりに記事にしておきます。コメントありがとうございます。
穴太衆というのは私も長い間追及してきた部族で、古代の石工集団である。想像としかいえないが大規模古墳、あるいは堤防工事、その他高度な土木、測量技術を持った渡来人だったと理解している

それが地名として残るのは琵琶湖のそば、大津だが、そのほかにも丹波地方にも、あるいは当て字に変え全国に散っているものと思われる。いずれにしても戦国時代、城郭を築くためにはこの頭脳集団を利用しないことにはおそらく完成できなかったものと思われる。
昨日、サムライさんとコメント欄で話題になったのは私の早とちりですが、ピラミッドの建築技術とその穴太衆との関わりであります。まあ、それはなかなか証明できるものではなく、古代マヤの遺跡とか、アンコールワットであるとか、どちらかといえば私のジャンルでは解決できない方面から分析できていくものと思っています。(他力本願であります。)

さて、matsuさんからいただいたコメントには、「吉野の近くに「「賀名生(あのう)梅林」という場所があるみたいです。月ヶ瀬梅林より多い2万本の梅林で、南朝の皇居跡が残っている場所だそうです。
「あのう」と「皇居跡」がひっそりと残っている場所が気になってしょうがありません。」・・・とあり、「あのう」との読みが引っかかってきた。穴太?と関連あり?
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まあ、ネットとはたいしたもので、はるかスペインでそれを調べる人がいるんですね。私のヨーロッパ連絡員(秘密諜報員ですのでhiromiとしか明かせないが・・・)からコメントが来て、wikiによれば、「・・・もと「穴太」(あなふ)と書いたが、後村上天皇が皇居を吉野からこの地に移した際に、南朝による統一を願って叶名生(かなう)と改め、さらに1351年(正平6年、北朝の観応2年)、いったん統一が叶うと(正平一統)「賀名生」に改めたという。明治になって、読みを「かなう」から原音に近い「あのう」に戻した。・・・・」ときたもんだ。つまり、最初は穴太だったのである。

さらに異星人の梅干さんからも相変わらず面白そうなコメントが入り、ゴールデンウイークの旅行は意義深いものになりそうな予感がしてきた。

姓氏録にあるのは

連番    本貫    種別   細分氏族名 姓  同祖関係     始祖
1107山城国未定雑姓穴太村主村主       曹氏宝徳公之後也

未定雑種とあるから、出自が不明の部族出身である。しかし村主である以上、古市まゆみさん家と同じぐらいの地位、すなわちけっこうな豪族なのである。
落合莞爾氏によれば、彼らはアヤタチと呼ばれるサンカで、そのドンが上田家だという。そこと大江山衆とが結びつき大本教が結成されてゆくというのは以前考察したとおりである。

その穴太氏の始祖、「曹氏宝徳公」とは誰?でありますな・・・・。私の直感ではやはりソグド人になるのだけど、今日のところは時間がないので、後で調べます。

なにが言いたかったのかと言えば、賀名生梅林が穴太梅林だったという事だけですな。でも、ネットというのは面白いですね。
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by sibanokuni | 2010-02-15 09:20 | マヨちゃんの古代史

葛城山に登ろう

昨日卑弥呼をまとめていて、いわゆる魏志が加治木さんが言うほど厳密に書かれているのかと言う素朴な疑問は残るが、考え方を改めなければと思ったのも事実である。
魏志倭人伝のなかに神武天皇、崇神天皇、垂仁をはじめ日本書紀の建国の主人公達がほとんど出てくるというのである。
こじつけじゃないの?と疑わないでもないが、ずいぶん苦労して書かれた本だし、一つ一つの論証はよくされている。逆に言うなら、書記の編者は魏志を意識して、登場する人物は全部織り込んだということだろうか。

朝鮮の史書「三国史記」、日本書記、古事記、各地にのこる風土記などには同じような話が多い。それはもとはひとつの出来事を記録したものだが、その実話が支配者とともに移動し、話がそこに定着し、変型したのである。出雲のしろうさぎが朱蒙の亀になるのであり、海幸、山幸伝説があちこちにあるのである。
それらの色々な話を統合し整理することは、いわゆる歴史書の事業仕分けのようなもので、コンパクトにすることで国王、天皇の数は約半分に削減され、日本と韓国が歴史的に一体であったことが明らかになるだろう。

昨日も書いたけれど、加治木説では高句麗王が九州に来て神武になったと言う。その高句麗の神話によれば朱蒙が始祖になり、その朱蒙は百済の始祖とも言われる。さらに、新羅の始祖・赫居世は加治木氏によれば壹與であるという。私も以前から神武=朱蒙=檀君=檀石塊と主張してきたので大枠では一致する。
つまり、どちらが主体だったかを見なければ日韓はまったく同じ始祖を持つと言ってもよいのである。
高句麗王・位宮が琉球出身であると言う説はやや納得できないところもあるが、高句麗五部族の中に、夫余には存在していなかった桂婁部(けろべ)が出てくる。それが琉球からやってきた海運族だというのはありえないことではない。いずれにしても彼も和人なのである。
まゆみさんと昨日メール交換をしたなかでも話が出てきたが、日中韓の歴史はともすれば感情的な問題になりかねず、国家が歴史をはっきりさせないのにも、やはりある程度触れてはいけないお互いの理由があるのかもしれないと感じる様になってきた。そもそも国境がなければそのようないざこざはありえないのであり、国家のエゴが歴史を捻じ曲げるのである。
私が日本の支配構造を暴きたいと考えた事が新たに国民感情を刺激したのでは本末転倒ではないか。

これから大化の本をもう一度まとめようと思う。日本国にとって卑弥呼が死に、神武が即位したのは大きな変革だったが、それ以上の変革が大化である。そしてそれをひっくり返すのが壬申の乱で、その後、持統天皇のころ藤原家が政府を独占し、日本の国体が定まるのである。そして平城京なのである。
今年はその遷都1300年だそうで、私も五月には奈良を訪ね、葛城山にも登る予定を決めた。
加治木さんが子供の頃葛城山に登り歴史に目覚めたと言う。私もその山頂から河内平野を眺めてみようと思っている。
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by sibanokuni | 2010-02-14 09:23 | マヨちゃんの古代史



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