シバちゃんのため息

カテゴリ:マヨちゃんの古代史( 106 )

神武は垂仁だった?

お待たせいたしました。本日は朝床屋さんへ行きましたので、更新する時間がなく、遅い時間ですが、今から書き始めます。
本日は、加治木氏の「JINMU」のまとめになります。実は何回も読んだのですが、どうにも理解できなくて、都合三回は読んだかな・・・・それでも十分にこなせない。頭が悪いのだろうな。

話を始める前にひとつご注意を。これはあくまで加治木説を説明するもので、私が納得しているものではありません。また、論証はしません。つまり、今日の記事は私のための覚え書であります。そのつもりで。

まず卑弥呼が活躍した当時、つまり西暦250年ごろ近畿地方にはヤオ人がいたことは間違いなく、八尾人が支配していた。それがなまって弥生人になったのだという。本当かな?
そして昨日お話した宝貝で生活していた部族はカリエン人といい、ベンガルを含むミャンマーあたりが原産の人種だそうで、和国人=カラひとで、韓も同様、「黒」という意味である。これに対し倭人は「ウワイ」といわれ、「白人」という意味だという。つまり、インドに来たアーリア人のことのようだ。倭人は仏経を広めるためにインドから日本方面にやってきたシャカ族なのだ。それに対しヤオ人は中国から来たので道教、和人はどちらかというとヒンズー教のようである。(神道に近いのか・・・)

238年 魏は司馬仲達に命じ、燕王、公孫淵を亡ぼす。高句麗・山上王位宮は魏に味方し出陣する。魏は燕の旧領を楽浪郡と帯方郡として併合する。
239年 倭人連邦女王、卑弥呼が魏の帯方郡へ使者、難升米を派遣し朝貢する。

さて、この卑弥呼は実は加治木氏によれば宮古島からやってきた天照さまでごじゃるそうで、和人である。
問題の邪馬台国は鹿児島の隼人にあった。そしてその弟こそ崇神である。公孫氏と関係の深かった卑弥呼はその源は呉国で、烏孫から川を下ってきたというギリシャ人なのだそうだ。

こののち魏の母丘倹(かんきゅうけん)は高句麗を攻め、高句麗王位宮は破れ種子島へ逃げる。そしてそこから卑弥呼のいる邪馬台国を攻める。この種子島は三国志には狗奴国と書かれている。そしてその位宮こそが垂仁天皇である。卑弥呼は帯方郡へ助けを求めた。しかし遠征して来た張政が駆けつけたとき、卑弥呼はすでに死んでいた。そしてその弟、崇神がたつも狗奴国の垂人天皇が反乱をおこす。
そして邪馬台国と狗奴国が戦争をし邪馬台国は破れ、垂仁天皇が即位し、女王には台與(いよ・とよ)をたて、戦争は終る。出来た国が邪馬壱国となる。これが神武東征の中身で、垂仁は神武と同一人物なのである。
つまり高句麗王・位宮とは神武であり、かつ垂仁である。これが247年、神武元年なのかな?

では高句麗王が邪馬台国を亡ぼしたから日本は朝鮮人に占領されたのかといえばそうではなく、高句麗王・位宮は和人で琉球出身なのだそうだ。
結論から言うと、神武は孝元天皇、垂仁、吉備津彦で、なおかつ山幸彦、彦火火出見尊もすべて同一人物なのである。そしてひどい目にあったのが海幸彦であり、崇神天皇なのである。
これで仏経国の隼人国(邪馬台国)がほろび、ヤマト(神道)が誕生する。

日本書紀のなかの「磯城彦」が「彦五十狭芹彦の命」で崇神天皇で、かつ孝元天皇、この姉、「倭迹迹日百襲姫」が卑弥呼である。
では卑弥呼が天照なのだから戦った高句麗王はスサノウということになるのだ。ははは、わっからないよね。

三回読んで、私はおおむね理解したけど、それでも十分な説明はとても出来ない。ただよく調べてあり、かなりいい線の様な気がする。特に複数の天皇が同一だったとするのは実に鮮やかなのである。
納得できない人は、申し訳ないけど「卑弥呼を攻めた神武天皇」を読んでくださいね。
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by sibanokuni | 2010-02-13 17:45 | マヨちゃんの古代史

宝貝って知ってた?

本当に恥ずかしいことだが、加治木氏の本を読むまで沖縄近海で宝貝がとれ、それが殷の時代、貨幣として非常に珍重されたことを知らなかった。
もちろん、昔、貝が貨幣の代わりに使われたことは知らなかったわけではないが、まさか卑弥呼の話にそのようなことが関わってくるとは予想もしなかったのである。自分の無知もさることながら、何にしても今まで一度もそのような視点を示した人がいなかったのは不思議である。っていうか、貝の貨幣制度など調べた事もなかったのである。反省・・・・・・します。
とりあえずタカラ貝をwikiでみると(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%82%AC%E3%82%A4)、「タカラガイは世界中の熱帯から亜熱帯の海域に分布し、全て海産である。特にインド洋や太平洋の、潮間帯から水深 500m にかけての深度に多く生息する。砂の海底よりも岩礁やサンゴ礁を好む。」
「キイロダカラなどの貝殻は、アフリカ諸国では何世紀にも渡って貨幣(貝貨)として用いられてきた。特に西欧諸国による奴隷貿易に伴い、モルディブ諸島近海で採集された大量のタカラガイがアフリカに持ち込まれた。・・・・最古の貝貨は中国殷王朝時代のもので、タカラガイの貝殻やそれを模したものが貨幣として使われていた。国内の通貨としてのみならず、タカラガイはインドとの交易にも利用された。漢字の「貝」はタカラガイに由来する象形文字であり、金銭に関係する漢字の多くは部首として貝部を伴う。」
うんうん、やはり、海部さんはその意味があるわけだ。

中国の貨幣制度を調べてみると、「殷・周では、子安貝の貝殻を貨幣としていた。このような貨幣を貝貨という。現在、買や財、貴といった漢字に貝が含まれているのはこの当時貝貨が使われていたためである。貝貨は春秋時代まで使われた。春秋戦国時代に入ると、青銅を鋳造して貨幣とするようになった。」

つまり加治木さんによれば、当時の沖縄はその宝貝の産地で、350万人の人口が集中するアジア有数の生産基地だったというのである。だから宮古島に天照さんが君臨したのもそれほど意外なことではなくなる。
殷、周が滅び、春秋戦国時代終盤には金属貨幣が登場してくる。それが理由となって、沖縄で宝貝貿易で生計を立てていた住民が沖縄を捨て、各地へ散っていったことが日本から韓半島にとって大きな波紋を呼ぶことになるのだ。

天照さんが宮古島から九州へ移動するには理由があったのだ。これで、なぜ天照さんが宮古島にいたの?という疑問のひとつが理解できた。よしよし・・・・。

ところで子安神社というのが各地にあるが、子安貝というのが代表的な宝貝なんだよね、なんか関係があるのかな?
それにしても、歴史というのは難しいな。
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by sibanokuni | 2010-02-12 06:10 | マヨちゃんの古代史

民族の概念はすてようよ。

先ほどコメントを眺めていたら飯山さんのHPが見られないとの情報が・・・、さっそく開いてみると、確かに準備中である。昨夜は見てるから、その後何かあったのか・・・・、またかな?

今調べました。http://grnba.com/iiyama/
に移動しているみたい。

さて、先日、まゆみさん家のコメントに、「この(まゆみさんとこ)サイトは古代史に詳しい方が多いようですので教えてください。今の韓国人は新羅人の末裔でしょうか、百済人でしょうか・・・云々。」

古代史に詳しいかどうかはともかくとして、なんとか答えたいと思い、実は5回ほどコメントを書いてはみたが、結局コメントをいれることが出来なかった。つまり、質問者の意図がわからないので、真剣に答える必要はないと思ったからだ。
なによりも答える前に、新羅人とか百済人の定義を教えてもらわないことにはうかつに答えることは出来ない。
韓国が出来る前は大日本帝国であり、その前は李王朝であり、高麗であり、統一新羅だった。その前の三韓時代については正確に答えることが出来る人は今のところ誰もいないはずだ。したがって、新羅も百済も消滅している以上、韓国人は新羅か百済の末裔かどうかなどそれぞれの個々の問題であり、何の意味もないのではないか。などなど・・・と考えが交錯し、私はもちろんのこと、私以外にも誰も回答をする人はなかったようである。

日本民族、朝鮮民族、などなど、これらの民族という概念は確かに存在するように思う。しかしどのように考えてもそれはそれほどの意味がないことを知るべきで、これらの概念が新たな紛争の火種になりうるのである。韓国人は韓国というひとつの国家に住む人たちの総称であり、それ以上でもそれ以下でもない。その国がなくなったとき、その民族は次の国家の民族になる。すでになくなった国家の民族名を口にするのは単にノスタルジーか、もしくは革命を起こそうとする危険分子でしかない。住民にとって住民のためになる政府さえあればどちらでもいいことなのだ。国土に線を引き、分断しておいてから民族を持ち出すのは支配者の御都合主義ではないか。人民にとって国境などは邪魔なだけだ。

私も加治木さんも一致しているのは、列島も韓半島も倭人が住んでいたとの認識である。中国の史書に現れている倭人とは広い概念であり、東アジア全般を示しているのである。倭国とは確かに日本列島にあったようだが、しかし、当時の国と言う概念は現在のような国境を定め、法律を定め、国家主権を主張するようなものではなく、あくまで地方豪族の集合体のようなものである。したがって、住民にとって民族的な関心などはなく、単に商品の流通や周辺の防衛を担う程度のものだったのだろう。

加治木さんがいい事を書いている。少々長いが引用しよう.(jinmuのp256から)

「私たちは「日本民族」なんかいないことを知っている。日本列島には入れ替わり立ち代り、あちらこちらから人々がやってきて、一緒になって暮らしてきた。その中のどれが「日本民族」なのか?絶対に決められない。それができるというものは大ウソツキなのである。・・・・中略・・・・・いま白人だと思っている人々も、自分の血にはジンギスカン一族の血が色濃く混じっている事実を知らないだけである。それはイギリス皇室の歴史を知るものには明白な事実だし、皇室自身もそれを恥じてなんかいない。恥ずかしいのはそんな「民族差別」を持っている人間のほうなのである。」

何が言いたいかというと、私は歴史の研究が民族の対立を生むことが怖いのである。日本から朝鮮半島へ進出したのか、半島から日本へ侵入したのか、それは歴史研究には必要な作業であるが、どちらが強く、どちらがひどい目にあったのか事実として調べることが紛争の火種になるようであれば、やはり学問とはいえ中止せざるを得ないではないか。もう少しみんなが大人になり、冷静に歴史を知りたくなるまで真実を隠蔽し、国民に知らせないようにするのもやむを得ないことになる。逆に言えば、支配者達は自分達の秘密を隠すために民族紛争をにおわせるというテクニックを使っているといえない事もない。
今、加治木説を勉強中だが、彼もやはり民族というものを意識することが歴史の研究の妨げになっていることを承知している。だからこそ彼の研究の評価が「とんでも」扱いになっている。真実を追究してゆくとどうしてもこのように扱われるのである。残念なことだ。
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by sibanokuni | 2010-02-10 09:24 | マヨちゃんの古代史

加治木さんはどうなのよ

加治木氏の著書で手に入れた4冊、「wajin」、「kofun」、「jinmu」、「taika」を一応全部読み終わった。
で、どうなのよ?・・・。
ある意味非常に感銘を受けた。正直言って「おみそれいたしました」である。いままで私が解明できないことをとてもたくさん解明しているし、知りたかったことのいくつかを教えてもらった。ただし、これを全部認めることは私にとっても大変な苦痛を伴う事でもある。しかし、一旦は全部受け入れないことには彼の主張を理解できないであろう。
そこで私は重大な決意を持って、もう一度順序正しく読み直すことを決意した。鳩山首相ではないが、「白紙に戻してゼロベースで考えてみる」ことにするのである。
全部彼の主張を受け入れ、それで新しい歴史像を築き、その上でマヨ理論とすり合わせるのである。今のように彼と対決しながら読むのは大変に疲れるのだ。白紙で受け入れることがもっとも正しく理解する事になるであろう。その後で見直せばいいのではないか。

彼の主張で大きく問題となるのは東日本に侵入した満州族の扱いと、スキタイ族を彼はインドからやってきた「シャカ族」と考えている事である。この問題は当分凍結しておこう。

日本から韓半島へ侵入したから日本の地名や名前があちらに残ると考えるのか、韓半島から日本に来たから日本に韓国語があるのか、高句麗の王を日本書紀の天皇に載せたのか、日本の天皇の名を高句麗王にしたのか、どちらも同じ様な事なのだが、民族的な自尊心からすれば非常に重大なのであろう。私にとってはどちらでもいい、しかしそれにこだわる人も多いだろう。
仮に韓国人であるなら加治木さんの説は到底認めるわけにはいかないだろう。しかし、歴史が事実を伝えるものであるなら、やはりそれはそれで仕方がないことである。
もともと私は真実が知りたいだけなのだから、結果傷つく事があろうがなかろうが関係のないことだ。
しかし一番恐いのは、仮に加治木説が正しいとするなら、韓半島の古代史のほとんどは空っぽになってしまうことだ。
はっきりいえることは、私もそのような気がしていたが新羅と百済の存在は非常に危ういということだ。私も百済の位置に付いては明確な答えを持っていなかった。それはどこにあったのかのたしかな証拠がなく、私の結論は絶えず移動していたのではないか、である。そして新羅に付いても統一新羅が出来るまで現在の韓国にあったとは一度も考えた事はなく、あくまで新羅(しらぎ)は大化の改新の後できた国で、それ以前は高句麗国の中に存在した小国(吉林にあった)だったと考えていた。つまり、現在の韓半島を私は倭国と考えていたのだから。
先日たまたま栗原氏の話から百済を遼東半島にあったとしたのは、彼が天皇家には朝鮮の血が入っていないといったからで、もしそこでないなら日本に百済があったとしか言えないではないか。
新羅は私の解釈では倭国のことである。倭国の支配者が日本へ侵入し、残った支配者が新羅を立てたのである。結果的には加治木説と同じ様なものである。やはりキーとなるのは天武、すなわち淵蓋蘇文だな。でも、私の持っている本には淵の事は書いていない。それは大化までの本しかないからである。次の本を手に入れ、壬申の乱を解けばすべてが解決する。彼は天武を種子島出身としているようだが、私は済州島もしくは高句麗としている。まあ、ゆっくり考えよう。
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by sibanokuni | 2010-02-09 06:02 | マヨちゃんの古代史

神武は架空?

神武は架空の天皇?昨晩、ねこさんのコメントやサムライさんの話を聞いてもそのような説が多いようである。
加治木氏を読むうち、「?」と思うことがあると、「それはJINMUに詳しい」とか「kofun」を読めばわかる」とか書いてあるので、結局購入した4冊全部を読まないことには話にならないことになってしまう。その人の最初の著書を読み、それを受け入れないことには次の本を読むことが出来ない。結果、読み終わるころにはしっかりと洗脳されてしまう。ちょっと困ったことなのだ。全部読む義理はないぞ・・・・ってね。
さて、私はあえて邪馬台国と今まで言ってきたが、詳しい人は台の字が難しい「台」と「壱」とあり、魏志倭人伝のみが「台」で、それ以外は「壱」と書いてあることで、両者は別物と論議している事である。
加治木さんの卑弥呼を読んでいない段階ではなんとも言えないが、「台」国の卑弥呼は「壱」国の神武に亡ぼされ、それが倭国になり、神武は俀(たい)国を作った・・・・と述べているようである。
まあ、中国の史書に「台」と「壱」と区別され、さらに「倭」と「俀」がある以上、何らかのメッセージが編集者にあったことは間違いない。つまり違う書き方をしている以上、別の物と考えるか、書き間違いか、もしくは同じか、その三種類しかない。
私の立場は、「魏志」の編者、陳寿は自分の雇い主、司馬仲達つまり晋王国の始祖を褒め上げて書く必要があった、だから特に邪馬台国の朝貢に関してはあまり額面どおりに受け取ってはならないのである。
陳寿はあえて真実を書かなかったから、その次の史書の編者は「台」の記事がウソがあるから「壱」と書いてそれを我々に教えてくれたのである。
話を神武に戻すと、日本国を建国したのはほぼ670年と考えればよく、その始祖は天智である。しかしそれでは日本は侵略王朝になってしまう。だから侵略した国家、それが倭国とするなら、その始祖を嵩神天皇とし、さらにその倭国が亡ぼした?国の始祖を作り、その始祖と一系とすれば万世一系を偽装できる。そんな程度の考えではなかったのか。
しかし、私の考えでは神武のイメージは朱蒙である。これは百済の始祖であり、高句麗の始祖であり、すなわち日本の始祖なのだ。
加治木さんは朝鮮の史書が11世紀に書かれたと言っているが、日本書紀には「百済記」などの朝鮮史書からの引用がある。つまり書記より前にそれらはあったのである。私の考えは朝鮮史を日本へ持ち込み、朱蒙の神話を神武に置き換え日本の始祖にすることで、自分達があたかも最初から日本を支配していたかのように偽装したのだ。つまり高句麗・百済の人たちが神武を始祖として日本へ持ち込んだというのが私の考えである。つまり、書記に書かれている神武は架空だろうけど、しっかりとしたモデルがいるということです。
以前にもお伝えしたが、その朱蒙というのは鮮卑の壇石塊のことであり、西暦180年ごろに倭人を捕らえ、漁業に従事させたという記録が残っている。檀石塊が遼東に進出した時、そこに倭人がいたという史実を加治木さんはどうとらえるのだろうか。また、山海経には「倭は燕に属する」とも書かれている。魏志に馬韓や辰韓、弁韓が倭国と接していると書いてある。中国史書に真実が書かれていると考えるならそれらを認めることが必要なのではないだろうか。史書を都合よく引用し、ある時は真実と考え、ある時はその記述を無視するのは公平ではない。
彼は新羅は九州にあった国で韓半島を占領したという。私は倭国が韓半島にあり、列島に侵入し、日本を建国したと考える。まさに正反対である。さあ、正念場である。がんばるべ。
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by sibanokuni | 2010-02-07 08:55 | マヨちゃんの古代史

倭の五王は誰なのよ?

新撰姓氏録をいじくりながら眺めているとなかなか面白い発見がある。「大原真人、敏達天皇孫、百済王也」、なんて書いてあると、孫が百済王なら敏達も百済人だろが!・・・・なんて突っ込みを入れたくなるよね。
ニギハヤヒの子孫など、もう、うじゃうじゃいるところからして、案外神話ではなく5世紀以降の神さまなのだろう。
それと、まったく姓氏録に子孫が出てこない天皇がある。中には欠史8代と言われながらも3,5,8,7代の天皇の後がいたり、逆に16代仁徳から履中、反正、允恭まで、それから21代、雄略、清寧、仁賢、武烈、安閑、欽明あたりの子孫はまったく姿を見せていない。
(参考までに 和風しごうです。クリックすれば大きくなります

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架空だろ、と言ってしまえばそれまでだが、あいにくそうばかりではない。
もちろん天智天皇以前の何代かの天皇は架空もあるし、いたとしても天智天皇に亡ぼされているから子孫はどこかへ逃げたのだろうが・・・・。
しかし、仁徳、武烈、雄略あたりの実在は堅いのである。つまり、徹底的に亡ぼされたか、地方へ逃げていったもか・・などと考えられる。ちょうどそれは有名な倭の五王の時代にあたり、皇国史観と現実の歴史の矛盾が隠しようがないのである。梁書、宋書などが正確だったかは多少論議が必要だが、外交は重要事項であるからまるっきりうそを書く事はありえない。従って、書紀にそれが載っていないというのは、その事実を認めるわけにいかないという事である。

加治木さんの本に面白いことが書いてある。
「神武から応神までは「父子相続」なのに、仁徳系は皇位継承が「兄弟相続」に変わった。」とあり、さらに「和風しごうが前後の天皇と比べあまりにも短く、粗末過ぎる」そうである。「仁徳は「おおさざき」、履中は「いざほわけ」、反正は「すいばわけ」、安康「あなほ」、顕宗「おけ」、仁賢「おおけ」という調子である。また、允恭もよく見ると「おあきづまわくごのすくね」もよく見ると「宿禰」というまるで臣下にしか使わないような称号を使っている。」
つまり、日本書紀を編纂した時点、これは正確には不明であるが、とりあえず天智天皇のころに始まったと思われるが、倭の五王と対応できないよう年代をずらすようなテクニックを使ったのである。
何を隠したかったかを考えてみよう。
応神は百済王の庶子だった。これは石上神社の七支刀の結果だが、指名したのは鮮卑、慕容氏であり、百済王の庶子を倭王にし、列島へ派遣した。当時、高句麗王も慕容氏の指名で安氏が送り込まれ、好太王となった。この好太王の軍勢を借りて百済王が列島へ侵入、河内まで到着したのである。ここで高氏・高句麗はなくなり、安句麗になった。
当時、河内近辺が倭国だったとは思わない、たぶん大和(たいわ?どのように呼ばれたのかはわからない。))だっただろうが、いわゆる武内宿禰というのがスキタイ族で百済王に付いて来た軍事顧問であろう。その後、北魏(鮮卑・拓跋族)が燕国(鮮卑・慕容氏)を亡ぼし慕容氏は南下し安羅に逃げ込む、さらに北魏は日本海を渡り、日本海側から列島に侵入する。私の意見ではそれが仁徳、雄略、武烈たちなのである。
その子孫がいずれ源氏になるのだが、後の新羅となる韓半島から日本を支配することになる金春秋にとってそれら北魏は天敵だった。だから彼等の歴史を消したのである。
加治木氏とはこの時点でまったく意見が異なってくるが、加治木氏は半島からの侵入や日本海を渡った満州の部族をまったく認めない。逆にすべてが日本から半島へ攻め込んだのだという。これで歴史を解明してゆくのだから立派なものである。私が正しいとは言わない。しかし、鹿児島や沖縄から半島へ入り、百済も新羅も高句麗さえも倭人が作ったとでも言うのである。私には考えられない。
結果はどうあれ、毎日加治木さんに学びながらも戦っているのである。相手の主張は十分に聞くつもりだが、これと戦うことで私の歴史もいっそう進歩すると信じている。

問題ははっきりしている。つまり加治木氏はスキタイをシャカ族、つまりインドから海を伝わってやってきた仏教徒ととらえていることで、私はシャカ族=スキタイは同意するものの、インドへ入ったのはその一部に過ぎないと思っている。即ち、スキタイ支配層は無神教で、仮に信仰があったとしたらおそらくミトラである。
彼らスキタイは中央アジアから宗教を人民支配の手段とし、キリスト、ユダヤ、ヒンズー、イスラム教などを使い世界を分断支配したのである。単に仏教徒としてとらえ、インドから船で宣教したと考えるとフン族、匈奴、突厥などの遊牧民の実態を誤るであろう。
加治木氏は半島から日本への渡来を否定するために、逆説を展開しているものと認識する。スキタイが海洋民族とするのは間違いで、あくまで国家を持たない中央アジアの覇者という位置づけをしないことには歴史が解明できないのである。
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by sibanokuni | 2010-02-06 06:09 | マヨちゃんの古代史

新撰姓氏録は生かせるか?

昨日は新撰姓氏録のデーターがネットにあったので、その表をエクセルに取り込み、少々加工し、さらにそれをアクセスというデーターベースに変換。自分なりの姓氏データーベースを完成させた。
まず、加治木さんはこの新撰姓氏録を高く評価しているし、いろいろな研究家も必ずこれを引用するから、間違いなく一級資料なのだろう。あまり見たことなかったけどね・・・。
ちょっと調べてみようか、WIKI「京および畿内に住む1182氏を、その出自により「皇別」・「神別」・「諸蕃」に分類してその祖先を明らかにし、氏名(うじな)の由来、分岐の様子などを記述するものであるが、主として氏族の改賜姓が正確かどうかを判別するために編まれたものである。後述するように、記載氏族が限られているとはいえ、日本古代氏族あるいは日本古代史全般の研究に欠かせない史料である。

現存する『新撰姓氏録』は、目録だけの抄記(抜き書き)であって本文は残っていないが、所々にその残滓が認められるとともに、若干の逸文が知られている。なお、本書の対象とする範囲は京(左京・右京)と五畿内に住む姓氏に限られており、また「序」にはそれすらも過半が登載されていないと記している。

なお、書名に「新撰」とつくのは、企画倒れで終わった『氏族志』のやりなおしという意味であって、『新撰姓氏録』以前に『姓氏録』なる書が存在していたわけではない。」

いずれにしても、アクセスというプログラムはただ単に表を並べ替えるだけのソフトではなく、いわゆる業務ソフトを作製するいわゆる開発ツールなのだが、もう最近はそれを利用することもなくなってしまった。つまり、扱い方が難しいので、離れているとさっぱり使い方を忘れてしまうのだ。
ただの表操作だけならエクセルのほうがはるかに早い、しかし、アクセスでデーターベースを作っておけば今後それに何らかのリンクを取ることで無限の活用法が見出せるかもしれない。

まあ、そんなことで昨日はその表を眺めていたため研究はさっぱり進まなかった。
アクセスというプログラムは高価だし、一般的には必要がないので皆さんはほとんど知らないと思う。しかし、このアクセスを使いこなせれば、一般企業の大半の業務プログラムは作ることが出来るのですよ。もちろん非常に難しいのですが。
とにかく私は30年以上前はコボルという言語でプログラマーをやっていたことがある。非常に簡単なプログラムで、半年も現場にいれば誰でも使いこなせる程度の言語である。ただし、その現場を離れる頃からデーターベースという概念が出来、二十年ほどたって久しぶりにコンピューターに立ち向かった時、その変化に驚くと共に、とてもついていけないことを悟った。とにかくリアルタイムにデーターを操作すること自体が私にはとても危険で、受け入れられないものだったからだ。
まあ、そんなことを書いても仕方がないな・・・。

私の言いたいのは、今あなたが若いのなら、ぜひこのデーターベースを学ぶべきだという事。たしかサンなんとか・・だったかな、スターオフイスだったかな、無料で使えるオフイスソフトにデーターベースがあったと思う。それでいいから使ってみるべきだ(昨晩私も見てみたが、難しそうだった)。このデーターベースソフトをある程度使えれば日本中に仕事があるはずだ。

私はあるバイトでアンケートの集計をしたことがあるが、アクセスを使えば入力から集計まで、それですべてが出来るのだ。もちろん三次元の集計はエクセルのほうが早いからアクセスからエクセルへエクスポートし、エクセルで加工、出力するのである。出来た資料をワード、もしくはイラストレーターに貼り付け、最終報告書として印刷所へ回すのである。・・・・あー、おもしろかったな・・。

とりあえず、せっかくのデーターですからダウンロードできるようにしたいけど、どうしようか?ちょっとやり方を考えますね。
とりあえず、河内国にいた古市さんは百済王の子孫だってさ。まゆみさんは、やっぱし姫様なんだな。たしか前ブログに書いてたから知ってると思うけど・・・。虎王では何もわかんないね。

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連番・・・・本貫・・・・・種別細分・・・・・氏族名 ・・・・姓 ・・・同祖関係始祖
1042  河内国  諸蕃百済   古市村主  村主  出自百済国虎王也
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by sibanokuni | 2010-02-05 06:19 | マヨちゃんの古代史

「旧唐書」と「新唐書」のどっち?

相変わらず加治木さんを読んでいる。このまま捨てるにはもったいない気がするからで、中途半端ながら「WAJIN」も読み出した。とにかく関係する本を全部読まないことには彼の論理がわからないからだ。
そこまで読む必要があるのか、といえば、私は価値はあると思う。結論はともかくとして、彼の考察はなかなか面白いからだ。

さて、日本として唐へ朝貢したのは7世紀後半ごろと思われるが、唐の史書には3種類あり、本来は同じように書かれていなければならないが、少しずつニュアンスが違う。これをどのように読み解くのはなかなか難しいのである。ちなみに列島が統一され、日本が統一されたのは白村江の戦い(663年)の後である。これは私も異存はない。当時の列島を倭国とするのか、倭人の国にするのか、大和の国なのかは誰もわからないが、倭国と考えないことには話が続かない。
三種類の史書の差を比べてみよう。「新唐書は、1060年に完成しています。 907年に唐が滅亡した後、50年以上も後に作られています。 また、945年に(旧)唐書が作成されているのにもかかわらず、その後100年以上も経ってから作成されています。 どういう思惑があったのでしょう。 当時の日本は、摂関政治により藤原氏全盛の時代です。 旧唐書では、冒頭、倭国とは古の倭奴国なりで始まっていて、倭国が中国の勢力下にあり、日本国は別種だと、日本国を北方騎馬民族である出雲の勢力と見なしているようでした。 ところが、新唐書になりますと、一転して日本は古の倭奴なりとされています。 これは、どういうことなのでしょう。」
http://kodaishi-21.hp.infoseek.co.jp/p3-6.htmlより拝借。

「唐会要の倭国・日本伝」から
古の倭奴国なり。新羅の東南に在り、大海の中で暮らす。代々中国と通交する。その王の姓は阿毎氏。官には十二等を設けている。
日本。倭国の別種である。その国は日辺に在る故に、日本国を以て名と為した。あるいは倭国は自らの名が雅ではないことを憎み、日本に改名した、あるいは日本は昔は小国だったが、倭国の地を併呑したという。

「旧唐書の倭国・日本伝」
倭国とは、古の倭奴国なり。京師から一万四千里、新羅の東南の大海中に在り、山島に依って暮らす。東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程。代々中国と通じている。
日本国は、倭国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。

「新唐書 倭国・日本伝」
 日本は、古の倭奴なり。京師から一万四千里、新羅の東南にあたり、海中に在る島に暮らしている。東西には五カ月の行程、南北には三カ月の行程。
咸亨元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号した。使者が自ら言うには、国は日の出ずる所に近いので、国名と為した。あるいは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すともいう。

旧唐書と新唐書のどちらが正しいのかはいまのところ答えることは出来ないが、日本が倭を併合したのか、倭に併合されその号を取られたとするのかは大いに問題である。なぜなら前者なら加治木さんが言うように日本という小国が倭国を乗っ取ったことになり、どこかに日本国があったわけでそれを探さなければならない。しかし、新唐書なら倭国が名前を変えて勝手に日本になったようなニュアンスが感じられるからだ。
ましてや、前者では日本の支配者が倭国の支配者になったのであり、後者であれば倭国が支配者である。

加治木説を取るなら前者(旧唐書)であり、私は新唐書が正しいという立場になる。とりあえず、このことは言葉尻というわけでなく、極めて重大なことゆえ、どうしても書いておかねばならない。つまり、倭国が日本と新羅になったのか、日本が倭国を乗っ取り、さらに新羅にもなったというのであるから・・・。

サムライさんはすぐに読むのを止めたそうだが、私は加治木さんの論理展開が面白いのでもう少し研究し、自分のマヨ理論に利用させてもらおうとずるい考えを持っている。しばらく時間がかかるので、もうしばらくお持ちください。
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by sibanokuni | 2010-02-04 06:23 | マヨちゃんの古代史

新羅は九州にあったの?

現在、加治木さんの「KOFUN」(誰が巨大古墳を造ったのか」を読んでいる。一度さらっと読み、もう一度要点をまとめようとゆっくり読んでいるところだ。
非常にすぐれた研究ですごいなと思う反面、どうしても私には受け入れがたい事がある。それは、この本を読む限りにおいてであるが、彼は韓半島から日本へ支配者が渡来した事を断固否定していることだ。そして、何より倭国が九州にあり、もちろん卑弥呼も九州、高句麗も新羅も九州、百済はなんと、大阪にあったという。いくら彼の出身が九州でもちょっと無理があるのと違う?では韓半島には何があったの?

一番私と違うことは、彼は韓半島の後ろにまったく目を向けていないところである。いわゆる日本近辺で歴史を語っているのである。私は日本、あるいは半島が広いユーラシア全体の中で孤立して生きてゆけるわけがないと思っている。つまり、高句麗が中央アジアや中国地域からの脅威にさらされた時、まったくそれに無関心でいられるわけがないのである。
まあ、これは歴史観で済む話ではないと思うのだが。

ところで次の文を読んでいただきたい。

「新羅の36代景徳王は761年に九ヶ州五小京117郡293県に及ぶ地名改名を断行した。倭人の命名した地名を、ことごとく改め、その名残を一掃しようとしたのである。・・・それは4年前に新羅にやってきた日本の国使の無礼な態度に怒った王が、会わずに帰国させたというほど日本嫌いが底流にあった。・・・・唐代以前には新羅の官職名は全部「倭の名前」が付いていたのである。それがこの改革を期に倭の名残が一掃し・・・・倭の名残を拭い去る努力が払われたのである。」(「kofun」p135から137)

膨大な文章の一部だけを切り取って論議するのは申し訳ないが、この文章を読めば、これは新羅の地、すなわち統一新羅のことだから韓半島大部分の事である、その地名が倭名だったのである。誰が読んでもそうなるのだが、加治木氏はどうも違うのである。
新羅のもともとは九州南部にあったと述べ、大化の改新のときに半島へ攻め上り新羅を建国したと言いたいようなのだ。では、なぜその半島に倭名がついていたの?誰が名をつけたの?
倭国は九州にあり、そこは金春秋に亡ぼされ日本になった。それは私もそう思う。しかし、百済は大阪にあり、日本に統合されたと述べている。高句麗がどこにあったかというと、これの本国は熊本だったそうである。という事は唐は熊本まで高句麗を攻撃しに来たというのか?満州地域の高句麗は誰が支配したの?
天智天皇が金春秋だったのは同感だが、彼は半島へ赴き新羅を建国し、さらに大阪へ攻め入り日本を統一したというの?さすがに一人何役は無理じゃないの?

アー、頭が痛くなる・・・・もう考えたくない。
一つ一つの話はそれほどおかしくはないのだが、全体とすると私の頭はぶち切れそうである。読めば読むほど基本的なところが違っているとしかいえない。
とにかく全部が日本の中のことで、韓半島も日本人が占領したと言いたいわけだ。それほどまでに騎馬民族征服説が気に入らないみたい。もちろん私も江波氏の論は認めないが、それでも当時の学会の状況からすれば、まだマシなほうなのだ。
「KOFUN」においても「TAIKA」でも素晴らしい歴史解明をしていながらどうもおかしいのだ。
何がおかしいかといえば、やはり出発点がおかしいとしか言えない。つまり、卑弥呼がおかしいのだろう。
全部で4冊仕込み、後二冊読まなくちゃならないのだが、ちょっと考え込んでしまった。
そういえば、以前、この人の事を聞いたとき私は「言語学者は信用できないから・・・」と答えたような気がする。今それを思い出し、やはり私の考えは間違っていないと思う。
彼の頭には韓半島の上にある満州やさらにその奥であるモンゴル、シベリアの事がまったくないのだ。満州あたりで五胡十六カ国が大混乱で戦争を行っている時に半島がまったく影響を受けていないはずはないだろう。また、高句麗も新羅も百済も倭国も日本にいたとするなら韓半島は一体誰が支配していたというのだ。
唐や隋があたりまえのように支配するはずじゃないのか?でも、惜しいな、彼の考察は決して無駄じゃないのだ。ただ、結論ありきの研究なんだよね。この先どうしようかな・・・・・・?
いずれにしても魏志倭人伝という陳寿が書き残した司馬仲達への「よいしょ」記事を額面どおり解釈し、それを前提に歴史を積み上げてゆけば出来上がったすべては砂上の楼閣で、てっぺんに到達した時にはもう後戻りは出来ないのである。もったいないことだ。
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by sibanokuni | 2010-02-02 20:38 | マヨちゃんの古代史

アッシリアから日本へ

ちょっと世界史のお勉強をしましょう。言っておきますが、世界史は小学生レベルですから笑わないでくださいね、特に古代オリエントの歴史は頭痛くなるもんね・・・・。教科書としてこちらを使いました。

注)少し追加をしています。

とりあえずアッシリアからです。前8世紀から前7世紀、メソポタミアからエジプトまでのオリエント全域をアッシリア帝国が統一した。場所はもろにイラク周辺です。(写真もそこから借用)
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 この帝国を建設したアッシリア人はセム語系で、前20世紀以前からティグリス川上流のアッシュールという都市を中心に交易活動等をしていた。古バビロニア王国やミタンニに服属していたが、前14世紀に、一時独立を回復。
そして、前9世紀ごろから急に勢力を伸ばす、それは鉄器時代になったからで、アッシリアは騎兵隊を導入し、弓を使った。これが圧倒的に強かったのである。

アッシリアは全国を属州、属国として、多くの民族を支配したが、その支配の仕方が酷くい。抵抗した都市の住民の生皮を剥いで城壁に貼りつけたり、串刺しにしたり、とにかく力で押さえつけるものだった。その代表が「強制移住政策」というものだった。
しかしあまりの強引さに周りから反撃を受け、北方のスキタイ人の攻撃と、支配下のカルデア人、メディア人等の反乱で首都ニネヴェは前612年に陥落し、前609年、アッシリア帝国は滅亡した。
皇紀元年は紀元前660年だから、アッシリアが滅びる50年ほど前に天皇家はうまく脱出したということか?

アッシリアが滅亡したあと、この近辺に四カ国が誕生した。リディア王国、メディア王国、エジプト、新バビロニアである。

さてこの新バビロニア王国の王様があの有名なバビロン捕囚をする。ブカドネザル2世という。そしてリディア王国は昔ヒッタイトがあった地域で建国した。場所的に言うなら今のトルコあたり、最古の製鉄部族ですな。
メディア王国は現在のイランとイラク北方に当たるかな?

この四国を再び統一するのがアケメネス朝ペルシャで、インダス川に到る大帝国を作る。ペルシャ人というのはメディア王国に服属していたがBC550年ごろその四国を征服し、統一した。
注目すべき問題はこの王国の宗教で、ゾロアスター教なのである。さらに、首都の名前がスサという。うーん、なんかぞくぞくしてこない。

鹿島氏によれば、中国の秦はペルシャ人が建国したのだという。その根拠は大変だからここでは述べない。
まあ、今日のお勉強はこのへんまでにしておきましょう。
ひょっとして栗原さんの言いたいのは、秦へお種が移ったってこと?
その考えも成り立つけれど、むしろスキタイ族がアッシリアを亡ぼし四つの国を作ったと解釈するのも一つの考え方かも。つまり、ひとつの神がアッシリアに降臨し、4つの神さまをお作りになった?

とりあえず、秦の始皇帝はひとつの選択肢ではあるな・・・。

WIKIで「秦」を見ると、「秦(しん、ピン音:Qín、紀元前778年 - 紀元前206年)は、中国の王朝。周代、春秋時代、戦国時代に渡って存在し、紀元前221年に中国を統一したが、紀元前206年に滅亡した。統一から滅亡までの期間(紀元前221年 - 紀元前206年)を秦代と呼ぶ。国姓は嬴(えい)。統一時の首都は咸陽。」とあり、なんと、姓はこないだ出てきた天武の名前の中にあった嬴があるじゃん。
やっぱり、天武はペルシャ人なのかな?加治木さんはラテン人だといっていたな・・・。

もちろん、私は天武をソグド人と言っていたが、ペルシャ人とは同じようなものだから別に文句はないけれど、この説で行くと、アッシリアから秦王国を建国し、亡びたあと中国に留まり、こっそりと生き残り、高句麗から日本へやってきたというごくまともな歴史になるな。あまり面白い展開ではないな・・・・・。いやですよ、私は除福伝説は信じていませんからね。ましてやそれではツランとまったく関連がなくなる。この線は却下したいな。

早い話、秦国はスキタイ的にいえば中央軍であり、右軍は海へ、左軍はカフカスへ向かうはずである。ツランは左軍である。調べて行きたいけど、わかるかな・・・・?
先ほど、サムライさんから、栗原さんはお種がアッシリアとは一言も言っていないですよ、とメールが入った。やっぱし!だから、スキタイなんだって。このスキタイこそ私の生涯のテーマなんだ。これがお種の元なのだ。

まあ、そんなに急ぐ話ではないから、次回はペルシャ帝国をお勉強しよう、なにせ世界史はよく知らないものだから、はずかしいな。皆さん一緒に勉強しましょう。
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by sibanokuni | 2010-02-02 06:09 | マヨちゃんの古代史



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