シバちゃんのため息

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ごちゃ混ぜの歴史

中臣氏は後に藤原の姓を賜ったとされるが、私はこれを疑っている。これこそ日本書紀における捏造の最たるところで、このあたりの歴史が日本史の肝だろう。鹿島で起きたことと新羅で起きたことを同時に書けば中臣氏と藤原氏を同一にしなければ歴史がつながらなかったのである。

645年、唐を降伏させた高句麗の淵蓋蘇文は唐と高句麗を完全に支配し、吉林の新羅を追い出す。そしていよいよ鴨緑江をこえ、現在の北朝鮮地域、倭国を侵略する。倭国は驚き、支配者層は対馬から九州へ逃げる。淵にを受け入れ服従する部下たちは淵にしたがい新しい偽の国家を打ち立てた。これが歴史上の統一新羅である。
倭国の支配者は九州大宰府の伽耶国を占領した。そして天武に亡ぼされるまでの歴史は三国史記の新羅本紀と日本書紀と両方に登場する。要は歴史がダブったのだ。
この謎の多い4世紀から7世紀にかけて列島中で戦乱が繰り返された。鹿島神宮では蘇我氏と中臣氏が戦い、出雲から追われた部族は富山から諏訪へと逃げ物部氏を亡ぼす。高句麗からから追い出された百済王家は越後から信州に入り、たぶん善光寺あたりに宮殿を築いた。それらの物語はそんなに昔のことではなく、れっきとした歴史時代なのだが、つじつまを合わせるために編集者は出雲を神話に押し込めてしまった。

一番困るのは淵蓋蘇文は裏支配専門だったのである。これは漢の時代、匈奴が漢を占領したにもかかわらず、漢皇帝を許し、王座を守る代わりに毎年貢物を納めさせたやり方である。フン族も同じ手を使っている。
淵はソグド人で皇帝になる資格をもっていなかったのかな?つまり、将軍にしかなれないお種だったわけだろう。
高句麗の支配方法も同様で、高句麗は唐に亡ぼされたように書かれているが、それは違う。実質は淵が裏支配していた。しかし歴史書は唐が高句麗を占領したことにした。実質は淵の息子が高句麗を支配した。
淵はその後統一新羅を攻め、その勢いで九州まで来た。白村江の戦いとは、淵が率いる新羅軍(天武)と九州でそれを待ち受けていた倭国・伽耶軍(天智)の戦いであった。最終的に九州は破れ、淵は天武として歴史に残るが、残念ながら九州で死んでしまった。

当時、日本も新羅もそして唐も女帝が多い。つまり、突厥をバックにした淵蓋蘇文がそれらを実効支配し、男子の皇帝を認めなかったのではないか。しかし淵が死に、突厥は西方へ引き上げる。そのとき代わりに攻め込んできたのがウイグル族だった。日本では聖武天皇が死にその後平安京へ移行していく時代である。十分に解析できないでいるが、日本に残ったのは突厥とウイグルの仏教軍事勢力である。これが平城と平安の違いではないか。ウイグルは日本を支配する正統の「お種」を百済王家とした。だから桓武が選ばれたのである。
突厥とウイグルの違いを私はいまのところ説明できない。ただしウイグルはアルタイ王室(これはマヨちゃんの勝手な想像王室だが・・・)から派遣された中央軍の可能性が高い。彼らは中国、満州、韓半島の正統な王統を定め、再び西方へ去っていったのである。突厥はアルタイから見て右へ進み、カザール王国を建設した。これが問題のアッシュケナジーユダヤの王国である。
あー、ややこしい。わからない人のほうが多いだろうな・・・。私も説明がうまく出来ない。
つまり、このような出来事が事実あったとしても三国とも歴史に書く事は出来なかったのだ。だからみんなで歴史書を改鋳し、つじつまを合わせたのだ。
結局のところ、アルタイ王室が左軍として派遣した皇子はアムール川を下り、高句麗や百済を建国、最終的に日本へ逃げ込み、善光寺に匿われていたところをウイグル族に助けられたってことかな?
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by sibanokuni | 2010-01-21 06:30 | マヨちゃんの古代史

将門の首塚は怖かった?

大正十二年の関東大震災の後、崩壊した大蔵省のために仮庁舎建設が急がれ、大蔵省敷地内にある平将門の首塚が取り壊された。その後、それを指示した大蔵大臣ほか十四名が連続して急死したという。

たたりにおびえた政府はただちに首塚を元に復した。・・・・怨霊好きの皆様には有名な話だろうが、唯物的に言えば平将門の子孫、もしくは部族が残存しており、自分たちの祀る将軍さまを軽んじたことに腹を立てたと考えるものだ。しかし、平将門は千年近く前の話であり、その執念たるやなかなかのものである。

平将門が挙兵した地域は昔から平家の多く住むところだったことは以前述べた。やはり、茨城といえば鹿島神宮であり、私の仮説ではここに王権をもっていた蘇我氏を閉じ込めた場所である。ここで蘇我氏は大王であり、朝廷と戦った結果、地上から身も名前も消されいわゆる「大化の改新」として二度と歴史にその名を見せなくなった。
しかし、その数百年後、新皇として公然と朝廷に反旗を翻したのが平将門なのである。

日本書紀は万世一系であり、天皇以外が王権をもっていたことを認めていないが、現実には各地に王権があったことは間違いなく、茨城にもあったのである。それを押し込めたのが香取神宮であり春日大社だった。
まさにその地域から平将門が出現したのは彼にはその権利があり、裏づけがあったのである。
彼らの子孫はそれなりに尊重され、日本の支配層の一角に位置したが、徐々に軽んじられ、遂に首塚が取り壊されるにいたり、「冗談じゃないぞ」と実力行使に至ったと考える。

大化の改新とは新羅でおきた「ヒドンの乱」と鹿島で起きた蘇我氏との戦乱をあわせ、まったく新しく創作した架空ドラマであった。十分な根拠は持ち合わせていないが、アテルイという武将はこの茨城から東北へ逃げ込んだ蘇我氏そのものではないかと思うのだが、どうであろう。ちょうど昨日「閉じ込められた神々」という本にアテルイが登場するみたいなので、読む前に自分としての考えをまとめておこうと思った。読書後には別の考えになるかもしれないが、二三日お待ちください。
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by sibanokuni | 2010-01-20 06:23 | マヨちゃんの古代史

マヨ理論にひとつ追加。

「謎の丹波路」の一番最初のところ、京都から丹波へ向かう入り口、老ノ坂峠あたりの記事を読み返していた。そこに「首塚大明神」と書かれた祠があるという記事が気になりそこを少し調べることにした。
この塚が光仁天皇の夫人で例の桓武天皇の母、高野新笠ではないかといわれていたそうである。しかし、彼女の墓は「大枝稜」がちゃんとあるから・・・云々。「え?大枝稜」、なんだやっぱり大エ山というのは「大枝」が本来の言い方で、老ノ坂は「おおえのさか」なんだろうな。つまり但馬の手前の大江山は後付けで、酒呑童子が出没したという大江は亀岡が本場だったのである。wikの記事はどうやら我々を欺く意図が見えるな、危ない危ない。

まあ、それはそれとして、高野新笠をネットでググルとすごいですな、天皇陛下のお言葉だった、「韓半島にゆかりを」発言を否定する記事がいっぱい。
教えてgooの記事、高野新笠はなぜ皇后になれなかったか?の回答者などはどう見てもプロですよ。その筋の専門家が必死で向かって来れば我々素人ははだしで逃げ出すしかない。さすがにその知識の深さは恐れ入るしかない。でも、結論ありき・・・ですな。

まあ、なぜ皇后になれなかったのか?なんて簡単なのだ。つまりは藤原家ではないからである。それだけのことだ。
そんなことは無視して、私としては高野の母が土師真妹(はじのまいも)で、夫は和乙継(やまとのおとつぐ)といわれた方を重要視したい。
百済の武寧王の子孫だとすれば彼の在位は432-532年であり、桓武の生れ年は732年。だいぶん年月がたっている。この間の日本書紀の歴史はあまり当てにならない。ただし、天皇陛下の認めた史実なのだから和乙継が百済の帰化人なのだろう。和氏は王仁(わに)氏である。つまり応神天皇の一族である。5世紀当時の韓半島は高句麗全盛時代で、好太王とその息子、長寿王が半島一帯を制覇したころである。河内に大規模な古墳が作られた時代だから、応神天皇は半島から追い出され、河内に王朝を作り、その後大和朝廷に亡ぼされたのである。その王族が王仁として残ったのだろう。

それはともかくとして、栗原氏は「歴史の闇を禊祓う」の中で、平成天皇のお言葉に関し、「天皇家に朝鮮の血が入っているとのたまう輩がいるが、何も知らない者だ・・云々」、とある。(どこに書いてあったか、どうしても探せない、またあとで探します。しかし、間違いなく朝鮮の血がながれていることを強く否定している。)

つまり、続日本紀、平成天皇のお言葉、そして栗原氏の見解、これらの三者が誰もうそを言っていないとすると、従来の歴史家たちは大いに悩むことになるだろう。
即ち、続紀は「高野新笠は百済、武寧王の子孫であり、桓武の生母である。」と書いている、天皇は「そのように書かれていることで韓国にゆかりを感じる。」、ところが栗原氏は「朝鮮の血が混じっているなどとんでもない」と述べる。さあ、ところがマヨ理論からすれば、いっさい矛盾することはない。
答えは、「武寧王の百済は朝鮮半島にはなかった」とするのである。そうすれば何も悩むことはない。私はいままで百済のあった場所を特定していない。なぜなら百済は移動しているからだ。少なくとも遼西にいたことも有るし、遼東にも、遼東半島にもいたことがある。したがって、百済国は存在しても百済地方はないのである。

武寧王時代の百済はおそらく遼東半島に存在したはずである。仮にそうだとすれば武寧王は朝鮮人ではなく満州人である。韓国人が百済を自分たちの祖先だと思いこむのは自由である、天皇は百済人の血が流れているといっただけで、韓国人または朝鮮人の血が入っているとは言っていない。続紀は正史である以上うそは書けない。ただ、本当の事も書かないだけである。天皇も栗原さんもうそを言ってはいけないが、本当の事を言う必要はないのである。

話がそれてしまった。本当は和邇氏を研究するつもりだったのに・・・・それは後日にしましょう。

栗原さんを重要視するのは彼が皇室のインナーサークルであり、我々の知らないことをたくさん知っているからである。しかし、うそはつかない代わりに真実は明らかにしない。要は、行間を読み取れといっている。
私は栗原氏が百済がどこに存在したのかを知っていると思っている。だからこそ自信をもって、「天皇家に朝鮮人の血は流れていない。」といえるのだ。
このことで、新たなマヨ理論をひとつ追加できる、即ち、「百済は韓半島にはなかった」のである。もう少し言うなら当時から百済王には高貴な血が流れていたのだろう。だから日本へやってきたソグド人は争って百済王と血縁を結ぼうとしたのだ。奈良の石上神社の有名な七支刀に「百済の庶子は生まれつき良い子なので倭王にする」とある。つまり、庶子が倭王になるのだから百済王の権威たるや、想像を超えるであろう。ところで、誰が七支刀を送ったのか?これは北燕の慕容氏であろう。
ついでに言っておかなければならないのは、後百済というのがある。これはまさに韓半島南部にほんの短い期間に出来た王朝だが、国の名前はどう付けようが勝手だが、それを古代の百済に結びつけるのはいい迷惑である。多くの人が勘違いしてしまう。
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by sibanokuni | 2010-01-19 06:19 | マヨちゃんの古代史

名護市長選告示

さあ、今後の政治を占う重大問題、普天間基地の移転問題を決定することになるだろう審判、名護市市長選が告示された。

以下、毎日ニュースから・・・・「米軍普天間(ふてんま)飛行場(沖縄県宜野湾=ぎのわん=市)移設に大きく影響する沖縄県名護市長選が17日、告示された。自公政権が米政府と合意したキャンプ・シュワブ沿岸部(名護市辺野古=へのこ)への移設に反対し、県外移設を訴え、民主党などが推薦する前市教育長、稲嶺進氏(64)と、辺野古移設を条件付きで容認した現職の島袋吉和氏(63)の無所属2人が立候補した。」

米軍と日本はすでにグアム移転で解決済みであるが、鳩山政権としては色々なネガキャンを嫌い、あくまで移転先住民の意思を尊重するというのを大儀名分にするつもりである。やるまでもないという気もするが、選挙は水物だし、意外や地元では基地の誘致を歓迎する人たちもあるかもしれないから、結果を見てからという慎重な鳩山氏のやりかたはなかなかずるがしこい。
もうすでに論議はされ尽くしている。24日の投票ですべてが決まる。もうこれで恨みっこなしだ。

日本全体の安全保障の問題を、一地域の住民感情で左右していいのか?という話もあるが、沖縄の住民のばかりに負担を強いて・・・、どうなのだ?本当なら米軍の駐留に賛成する人たちの住むところにヘリコプターの基地を作るべきだろう。本土の人間はあまりにも醜いではないか。

小沢さんがアメリカの第七艦隊だけで十分だといったのは本当の事なのである。冗談だったらあれほど自民党が驚くはずがない。

さあ、今回の国会もさることながら、24日の名護市選挙で日本が大きく変わるという事をみんな知る事になるだろう。
もともと日本にアメリカ軍がいなくても問題なかったとしたら、自民党の人たち、そして日本会議の人たちはどのような説明をしてくれるだろうか。
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by sibanokuni | 2010-01-18 05:59 | シバちゃんのため息

禅宗はいつから発展したか?

たまには宗教から歴史を考えて見ます。
まず、禅宗の発達した過程を知らねば・・・・ここからちょっと拝借しましょう。

「日本においては、嵯峨天皇の代に、懐譲派の義空が初めて禅宗を日本に伝えたが、当時、伝教大師の日本天台宗が広く流布していたため、受け入れられず空しく帰国した。その後、鎌倉時代の僧・栄西(ようさい・1141年~1215年)が、中国(宋)に渡って禅宗を学び、建久二年(1191年)、日本に臨済宗を伝えたのが始まりとなった。
もともと栄西は、十四歳にして比叡山に登って天台宗を学び、中国の天台山にまで足を伸ばしているが、当時、すでに真言密教を取り入れ邪教化していた天台宗では満足できなかったのか、帰国後、疑問を起こして禅宗を学びたいと欲した。そして、再び宋に渡り、臨済宗の万年寺に身を寄せること数年、臨済宗の法義を相承して帰国したのである。

栄西は初めは九州・博多を中心に布教し、後に京都へ進出しようとしたが、比叡山の禅宗停止の訴えにより、建久五年、停止を命ぜられた。栄西は禅宗擁護のために、さまざまに活動し、他宗からの圧力を逃れて鎌倉へ向かった。鎌倉では、北条政子の寺である寿福寺の住持となり、更に建仁二年(1202年)には、源頼家が京に建仁寺を建てたので、住持として迎えられている。だが栄西は、建仁寺を比叡山の末寺とし、天台・真言・禅を兼修する寺として、自らの保身の手段としたのである。その他、栄西は名誉欲も強く、大師号を得るために賄賂をばらまいて嘲笑されるなど、栄西の伝えた禅宗は、自己保身と名聞名利を根底としたためもあってか、思想的にも純粋な禅宗ではなかった。

この、栄西によって伝えられた臨済宗に対し、今日の曹洞宗を日本に開いたのは道元(1200年~1253年)である。

道元は幼時に父母を失い、十三歳で比叡山に登ったが、後になって、当時名を高くしていた栄西の門をくぐった。栄西の死後、みずから入宋した道元は、座禅修行中に豁然と悟りを開いたと称し、安貞(あんじょう)元年(1227年)帰国して曹洞宗を弘め、現在の総本山となっている永平寺を開創した。道元は、自己の悟りを仏からの正伝(しょうでん)の仏法と信じ、仏教全体を禅に統合しようという考えを懐いていたようである。また、前の臨済宗が貴族武士階級に弘まったのに対し、曹洞宗は庶民の間に浸透していった。」

引用が長くて申し訳ない。要約してある文章をさらに要約するのが難しいからだ。

日本の歴史を学ぶ上で、一番問題なのは、寺院を善意の機関だという前提で書いている事であり、重大な錯誤というか、真実の隠蔽をしている。いつの時代でも寺院は権力者であり、搾取する側であり、庶民を苦しめていたはずである。
私の最近のマヨ理論でも日本の天皇は最高支配者である。しかし奈良時代は南都仏経に、平安時代は比叡山に権力を支配され、軍事力を持たない朝廷は絶えず彼らと対決せざるを得なかったのである。そこで朝廷は寺院勢力の軍事力に対抗するため、源氏や平家にお種をばら撒き武士勢力に政治を任せたのである。
つまり、在来の仏経に対抗するための幕府にとって、精神的なバックボーンを禅宗に求めざるを得なかったと考えればいいのだろう。このような視点で宗教を考える人は少ないので研究はなかなか進まない。
今日は日曜日なので韓流ドラマ、「王建」を見なきゃならないのでこれぐらいで失礼。
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by sibanokuni | 2010-01-17 07:05 | マヨちゃんの古代史

丹波考、何回目?

「謎の丹波路」を読んでいてちょっと面白い記事があったので紹介しておきましょう。
なんと、ゼンソクの森というのがあるそうだ。話すと長いけど、話さなければわからない・・・ぶつぶつ・・・。
要は、姦通罪で逃げていた若い嫁「おさん」とその店の手代だった茂吉は丹波を通る途中、追っ手に迫られ森の桜の木の下に隠れていたとき、「おさん」がセキをしたため追っ手に捕らえられてしまったという話だそうだ。
同情の余地はない?そりゃあそうだ。若い嫁が手代と姦通すりゃ処刑されてもしかたがないだろう。時代が違うのだ、今から三百年も前の話である。今、この姦通罪があれば、成人男性の2割、主婦の三割は死刑だな・・・違うか?
いや、今日は姦通罪の話ではないのだ。
でも、ちょっとかわいそうなのですよ。
この若嫁「おさん」は大変な美人で評判だったのだが、亭主はそれに飽き足らず、手代の恋人「おたま」に手を出していた。悩んだ「おさん」はこっそりとその「おたま」と入れ替わり、夜中亭主が来たら脅かしてやろうというすんぽうだったんだ。ところが忍んできたのは手代の茂吉で、二人はそれに気が付かずHをしてしまった。結果、二人は姦通罪を犯してしまった。そこで二人は手を取り合って、茂吉のふるさとである、丹波の柏原(かいばら)へ落ち延びようとしたのである。なんとなくかわいそうでしょ。でも、処刑の記録は現存するそうだから、本当に殺されたのだろうな。

今日問題にするのは、姦通罪でもゼンソクの話でもない。単に、彼らが向かっていたのが春日町山田という地区であり、捕まったのが柏原町だったという事であります。なんで?

私は名古屋在住であり、商売で春日井(かすがい)方面は毎週のように出張していた。その中に柏原町(かしわら)という地名があり、そこにお客様があったのでよく知っている。現在そのあたりには朝宮公園があり、あまり米は出来ないようで、桃やブドウなどを作り人が多い。

さて、春日井はどうして「かすがい」と読めるのか?まず言っておくのは春日(はるひ)は「しゅんび」であり、鮮卑のことである。これは「億うそ」さんの受け売りだが、それ以外に考えられない。そして柏原はアジアの果て、シルクロードの終点に程近い現在中国領のカシュガルから来ているという。
つまり、カシュガル=柏原=春日井、なのである。
そして、このカシュガルは神武天皇が始めて神宮をお作りあそばした橿原神宮と同じ意味である。
以前訪れた事のある地区で、現在は岡崎市になっているところの額田町堅田もカシュガルだという。
もう一度見てみよう。春日井は意味は鮮卑で、「しゅんび」、読みはカシュガルから「かしはら」をひねって「かすがい」、したがって、その中心に必ず柏原が存在することになる。

さて、現在の丹波柏原は福知山の南、ここへ鮮卑族が来た証拠は地名に残されている。長い文章を書いたが、言いたい事はそれだけのことです。姦通罪はあったほうがいいのか、まずいのか?それは今回の話とはまったく関係のない話です。ただし、もうそろそろ還暦を迎えようという私にとって姦通罪などもうどうでもいいことであります。ただ、世の中の平和のため、厳罰で臨んで欲しいと思うのは老人のひがみであろうか・・・。
「失楽園」をかいた助平な小説家、渡辺某など姦通ほう助罪で市中引き回しの末、獄門だわな。うん、それがいい。
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by sibanokuni | 2010-01-16 10:02 | マヨちゃんの古代史

足利尊氏は藤原氏のお種?

「謎の丹波路」という本を読んでいるが、この丹波という地域の奥深さは底知れない。やはり京都と山陰を結ぶ街道でもあるし、大陸との街道でもあったようで、古代から現代に至るまでいわゆる要所だったのである。

恥ずかしながら、一番驚いたのは足利尊氏であり、もうひとつは春日局だ。いずれも都市伝説?の域をでないから、事実として考えると足元をすくわれる。あくまでうわさ程度の扱いにせざるをえないが・・・。

まず、国鉄梅迫駅から1km手前に安国寺町がある。そこに景徳山安国寺という寺があり、元は光福寺といって足利尊氏の母清子の里、上杉家の氏寺だったようだと書いている。
この参道には「尊氏産湯の井戸」という怪しげなものがあり、尊氏の母・上杉清子は、足利貞氏の嫁入りしたが、子供が生まれず、寺内の地蔵仏に祈って妊娠し、ここで出産したのだという。まあ、信じる必要はない。
父、貞氏は下野国(しもつけ)足利庄の住人である。清子は上杉氏の始祖、上杉重能の孫。しかも勧修寺流の藤原清房(内大臣)の次男。建長4年(1252)、宗尊親王が六代将軍として鎌倉へ下向するときにお供をしたという。(上記「謎の丹波路」より引用)

この鎌倉へ下向するさい、丹波上杉荘を賜ったというからこの界隈が藤原氏の荘園だったことになる。
この丹波と尊氏との関わりはもう少し時間をいただくとして、やはり、尊氏の正体を知るためにもう少し突っ込む必要がある。

まず、藤原勧修寺流とは、WIKIから「坊城(名家/藤原氏北家勧修寺流)]
藤原北家勧修寺流。鎌倉期に中納言・吉田経俊の子・俊定が坊城を号した。俗に小川坊城とも称される。記録と装束を家業とする名家家格を有する公家。戦国末期に一時期中絶したが、後に勧修寺晴豊の三男・俊昌が入って再興された。明治期には貴族院議員、陸軍少将、山形県知事などを務めた俊章に伯爵が授けられた。」とあるから、北家のなかではやや下のほうかな・・・。

さらに、藤原清房を調べよう。やはりWIKIから、「藤原 清房(ふじわら の きよふさ、生没年未詳)は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家、廷臣。藤原房前を祖とする藤原北家の一門の勧修寺流の藤原盛憲を父とする。勧修寺清房。正五位下、蔵人、出羽守。
祖父顕憲の養子としてその家を継ぐという。父盛憲、叔父経憲はともに保元の乱で流罪となり、一時一家は没落するが、清房は従姉妹の在子が入内した後鳥羽天皇に近侍し家運の回復に努める。しかし、承久3年(1221年)の承久の乱の結果、後鳥羽上皇が隠岐国へ流罪となると、清房もこれに従い、出家の上隠岐へと下った。
次男の重房は丹波国何鹿郡上杉庄(京都府綾部市上杉町周辺)を領して上杉重房となり、征夷大将軍の宗尊親王と共に関東の鎌倉へ下ることになる。この重房が室町時代に関東管領・大名などを出す上杉氏の祖である。」

結局尊氏というのは平家を偽称する北条家の有力御家人でありながら、極めて源氏色の強い「お種」を持っていたのかもしれない。つまり、ひそかに天皇家から密命を受ける立場にあったようである。

南北朝の問題はそんなに単純じゃないから、もう少し研究が必要だ。今日はただ丹波と尊氏の間に因縁があることだけを書き残しておこう。

それからここからが重要。
この安国寺というのは有名な天竜寺の夢窓疎石の開山であり、彼は時の将軍、足利尊氏をそそのかし全国に60もの安国寺を作り、禅宗を国教化しようとたくらんだようである。以前、戦国時代が宗教戦争だったと述べたが、北条氏の曹洞宗、この足利氏の臨済宗が意外や政権の存続に関わっていると考える歴史家は少ない。
やはり、日本において問題となるのは宗教の教えそのものではなく、誰が持ち込んだかが重要になるのである。残念ながら、宗教と歴史を私のように考える人は少ないようである。それでは日本の歴史はわかるまい。
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by sibanokuni | 2010-01-15 06:29 | マヨちゃんの古代史

本の洪水

昨日、日本の古本屋で「閉ざされた神々」という本を注文した。これはまゆみさんが面白そうだと紹介してくれた本で、アテルイの話のようだ。古代の日本の中心は東北だったといわれることがある。アテルイとか、平将門がわかってくると、日本の国の構造がかなり明らかになる気がして、本の到着をわくわくしながら待っている。

さて、いろんな課題を同時進行で研究中である。まず、安羅に関連し、「伽耶は日本のルーツ」(澤田洋太郎著)を読みながら、近江も知りたいのでmatsuさんからいただいた白洲正子さんの「近江山河抄」を読みながら、モンゴルの雰囲気を味わうため井上靖の「蒼き狼」を買い、全体を知るため「日本地図から歴史を読む方法②」(武光誠著)を開きながら、昨日やはりアマゾンのユースドで手に入れた「謎の丹波路」(青木一夫著)が到着した。一体いつ読むの?ってとこかな。

結局、ねたに追われていることもあるけど、やはり飽きっぽい性格なんだろうね。ひとつのことをじっくり追求するより、あっちとこっちに手をだし、全部中途半端になってしまう。
しかし、私のように古代から現代までを同時進行形で研究する場合、あまり小さなことにこだわっていられないのだ。
あることを追求し、何らかの謎に出会ったらそこでストップし、別のことを調べるとまたいくつかの謎に行き当たる。この謎をたくさん集めておき、それらを統一して解決する仮説を打ち立てる。こんな感じで歴史を解明しようとしている。だから、皆さんがいろいろなことを教えてくれるが実際のところ私は知らないことのほうが多い。恥ずかしい場合もあるけど、あまりにも広がった研究は断片的に見ればどうしても浅いものにならざるを得ない。木をみて森を見ず、という言葉があるが、私は大きな森ばかり見て、木自体はほとんど見ていないかもしれない。まあ、歴史というのは偽造と捏造の固まりだから私のようないいかげんな研究方のほうが騙されにくいと思っている。

丹波路の本で何を知りたいかと言うと地理的な知識を得たいがためである。古代の丹波国はいくつかに分けられ、現代では兵庫県と京都府に分断され、地域的概念が大いに損なわれている。この本はその点、街道そのものを順々にたどることで丹波の地理を学ばせてくれる。
大江山と言うと綾部から西のように考えるが、問題の鬼退治伝説はもっと東であり、むしろ亀岡周辺に近いようである。つまり、現在、丹波をわかりにくくしているのはわかり易くしないよういろいろな作業が行われたことを示している。昨日着いたばかりでまだほとんど読めていない。地味な本ではあるが、何か大きな発見が得られる可能性はある。
いずれにしても、本を読む時間がないのが悩みである。
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by sibanokuni | 2010-01-14 06:23 | シバちゃんのため息

武内文書に関し

昨日umeさんから教えていただいた「南朝と竹内文書」は非常に面白い。とにかく面白い。
まず正当竹内文書の口伝伝承が始まった経緯について、七十三世・武内宿禰は「原日本人に対する侵略者である武内宿禰が、原日本人からその歴史と秘儀を奪ったのだと思う。原日本人の歴史はおそらく、神代文字で書かれていたのだろう。もともと天皇と古神道とは関係がなかった。それが現在、関連付けられているのは、原日本人の歴史と秘儀を奪ったことと関係があると思う。」と述べている。

この認識は実に新鮮だ。つまり、神武はともかくとして武内宿禰は征服者で、それ以前の王朝祭祀を引き継いだという考え方は現在天皇家が行っている宮中祭祀そのものとおなじである。表には出さないが、日本国はいくつかの王朝を征服し、それらの祭祀を今でも皇居内で行っていると言う事である。建前上、万世一系とされる天皇家であるが、それはアッシリア?から一系であって、日本列島内の歴史そのものではないのである。(みんな知ってるよね。)一番の問題は、いくつの王朝があったかと、どこにあったのかであろう。

さて、私は意外とこのHPには信頼性を感じる。武内宿禰が旧支配者の祭祀を引き継いだのだが、「正統竹内家の墓守に大伴部真麻呂と宿禰麻呂がいる。彼らは桓武天皇の延暦十一年(七九二)に、陸奥国俘囚の身から、祭主の留守を守る宮守兼竹内家の墓守に採用された。そして射水郡二上山にある武内宿禰の墓を守るため居住した所が伴郷と呼ばれる地名となったという。」とあるから、この地域がおそらく征服した拠点としてもそれほど間違いはないだろう。つまり、武内が亡ぼしたのが越王朝なのだろうか。もしそうなら、亡ぼされた越後が上杉となり、征服した武内が加賀前田へつながるのか・・・?
加賀は有名な一向一揆の発祥地である。何か関連があるようなきがしてくる。ただ、陸奥で奴隷になっていたとあるから、彼等も誰かに追われた身だったわけだが・・・。
とりあえず、富山市の射水郡二上山を調べると、射水神社(いみずじんじゃ)がそれにあたりそうである。それは富山県高岡市の古城公園内にある神社で、式内社(名神大)越中国一宮。現在は神社本庁が包括する別表神社となっている。

この富山と聞いて思わず思い出したことがある。以前の記事で描いたダビデの図を下に示そう。
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この中で、久能山東照宮、世良田の東照宮、日光東照宮、柏崎、そして天海のお寺、長野の戸隠神社などはよくわかる、しかし、富山だけはさっぱりヒントがなかった。しかし、今、富山市の射水郡二上山がでてきた。

以前、気象兵器の使用が疑われた柏崎地震、岩手地震、東海村の地震、能登沖地震などだが、これらはすべて閉じ込められた神が動き出したことを現していた。つまり、今回の政変で動き出した中にこの武内宿禰も含まれている可能性を指摘することが出来る。

今回発見した記事のなかに新田氏と世良田の名が出てくる。これこそ徳川家康の出自に関わる日本の秘密ではないか。世良田こそ新田郷に隠された「お種」の保存場所であり、それが家康に受け継がれ、現在の皇太后、正田家はそのお種を受け継いでいるのかも・・・。

まだ全部を読み終えていないので判定できないが、富山という地域が持つ意味がようやくわかるかもしれない。
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by sibanokuni | 2010-01-13 06:23 | マヨちゃんの古代史

対馬海峡は大変だった。

姫さまから白村江の戦いの話が出たけれど、その話の前に、神功皇后伝説について一言述べておかなければならない。戦前教育ではこの神功皇后が三韓を征伐したと教えられているようである。しかしながら日本書紀の記述を信じるならばこれは3世紀の話になる。7世紀の日本・百済連合軍対、唐・新羅の海戦ですら私は疑っているのに、3世紀に九州から海を渡り、三韓と戦争したという史実を私は信じることは出来ない。具体的な証拠を求めることは気の毒だが、古代において対馬海峡を簡単に渡れたとは到底考えられないのである。

遣唐使は最初のころは北路を取り、一番ポピュラーなのは遼東半島経由である。ただし、この先端、いわゆる旅順の勢力によっては韓半島南部を海岸沿いに進み、最終的に黄海を横断する事になる。これはやや危険で、何度かの遭難も記録されるところである。
しかしそれ以上に危険なのは南路であり、有名な鑑真和尚はその航路を取り、大変な苦労をしたのである。
聖武天皇の勅命による栄叡と普照の要請を聞いた鑑真は、彼らの要請をすぐに承諾し、弟子達の中に日本へ渡ってくれる者がいないか問いかけたが、日本への航海は危険極まりないとの理由で、希望者は1人も現れなかった。そこで最終的に鑑真自らが日本へ行くことを決意し、それを聞いた弟子21名も随行を名乗り出た。その後、一行は日本への渡海を5回にわたり試みたが、ことごとく失敗したとある。(WIKI)

さらに、「753年に遣唐使が帰日する際、遣唐大使の藤原清河は鑑真の同乗を拒否した。それを聞いた副使の大伴古麻呂は密かに鑑真を乗船させた。11月17日に遣唐使船が出航、ほどなくして暴風が襲い、清河の大使船は南方まで漂流したが、古麻呂の副使船は持ちこたえ、12月20日に薩摩坊津に無事到着、実に10年余の歳月を経て仏舎利を携えた鑑真は、宿願の渡日を果たすことができた。」
(時代は孝謙天皇になっており、聖武天皇の遺品が正倉院に収められたころである。)

つまり、波の穏やかな日本海と違い、外海は8世紀になっても大変な困難を伴ったのである。
簡単に三韓征伐であるとか、百済を救済するために出兵するなど少なくとも私には信じられないことである。

白村江では400艘の船が沈んだといわれるが、できるものなら海底を調査し、遺骨でも引き上げた暁には事実と認めようではないか。

長々と書いてきたが、私の研究したいことは、日本と新羅、そして唐、渤海の関係であり、使節のやり取りからそれらの国の支配部族が浮き上がってくるのである。
いうまでもないが、神功皇后の話は倭の国が韓半島内にあったころの史実を歴史書ごと日本史の中に入れてしまったため、書紀の編纂者は大変に苦労したことだろう。
いずれにしても聖武天皇の時代、唐と渤海そして日本は友好関係にあり、新羅だけが敵対していた事になる。つまり、奈良時代の日本は鮮卑系であり、新羅は淵蓋蘇文の残党である突厥族が支配していたと考えるのである。この後、日本は平安時代に向かって支配層が変わっていくのだろう。
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by sibanokuni | 2010-01-12 09:17 | マヨちゃんの古代史



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