シバちゃんのため息

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倭の五王は誰なのよ?

新撰姓氏録をいじくりながら眺めているとなかなか面白い発見がある。「大原真人、敏達天皇孫、百済王也」、なんて書いてあると、孫が百済王なら敏達も百済人だろが!・・・・なんて突っ込みを入れたくなるよね。
ニギハヤヒの子孫など、もう、うじゃうじゃいるところからして、案外神話ではなく5世紀以降の神さまなのだろう。
それと、まったく姓氏録に子孫が出てこない天皇がある。中には欠史8代と言われながらも3,5,8,7代の天皇の後がいたり、逆に16代仁徳から履中、反正、允恭まで、それから21代、雄略、清寧、仁賢、武烈、安閑、欽明あたりの子孫はまったく姿を見せていない。
(参考までに 和風しごうです。クリックすれば大きくなります

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架空だろ、と言ってしまえばそれまでだが、あいにくそうばかりではない。
もちろん天智天皇以前の何代かの天皇は架空もあるし、いたとしても天智天皇に亡ぼされているから子孫はどこかへ逃げたのだろうが・・・・。
しかし、仁徳、武烈、雄略あたりの実在は堅いのである。つまり、徹底的に亡ぼされたか、地方へ逃げていったもか・・などと考えられる。ちょうどそれは有名な倭の五王の時代にあたり、皇国史観と現実の歴史の矛盾が隠しようがないのである。梁書、宋書などが正確だったかは多少論議が必要だが、外交は重要事項であるからまるっきりうそを書く事はありえない。従って、書紀にそれが載っていないというのは、その事実を認めるわけにいかないという事である。

加治木さんの本に面白いことが書いてある。
「神武から応神までは「父子相続」なのに、仁徳系は皇位継承が「兄弟相続」に変わった。」とあり、さらに「和風しごうが前後の天皇と比べあまりにも短く、粗末過ぎる」そうである。「仁徳は「おおさざき」、履中は「いざほわけ」、反正は「すいばわけ」、安康「あなほ」、顕宗「おけ」、仁賢「おおけ」という調子である。また、允恭もよく見ると「おあきづまわくごのすくね」もよく見ると「宿禰」というまるで臣下にしか使わないような称号を使っている。」
つまり、日本書紀を編纂した時点、これは正確には不明であるが、とりあえず天智天皇のころに始まったと思われるが、倭の五王と対応できないよう年代をずらすようなテクニックを使ったのである。
何を隠したかったかを考えてみよう。
応神は百済王の庶子だった。これは石上神社の七支刀の結果だが、指名したのは鮮卑、慕容氏であり、百済王の庶子を倭王にし、列島へ派遣した。当時、高句麗王も慕容氏の指名で安氏が送り込まれ、好太王となった。この好太王の軍勢を借りて百済王が列島へ侵入、河内まで到着したのである。ここで高氏・高句麗はなくなり、安句麗になった。
当時、河内近辺が倭国だったとは思わない、たぶん大和(たいわ?どのように呼ばれたのかはわからない。))だっただろうが、いわゆる武内宿禰というのがスキタイ族で百済王に付いて来た軍事顧問であろう。その後、北魏(鮮卑・拓跋族)が燕国(鮮卑・慕容氏)を亡ぼし慕容氏は南下し安羅に逃げ込む、さらに北魏は日本海を渡り、日本海側から列島に侵入する。私の意見ではそれが仁徳、雄略、武烈たちなのである。
その子孫がいずれ源氏になるのだが、後の新羅となる韓半島から日本を支配することになる金春秋にとってそれら北魏は天敵だった。だから彼等の歴史を消したのである。
加治木氏とはこの時点でまったく意見が異なってくるが、加治木氏は半島からの侵入や日本海を渡った満州の部族をまったく認めない。逆にすべてが日本から半島へ攻め込んだのだという。これで歴史を解明してゆくのだから立派なものである。私が正しいとは言わない。しかし、鹿児島や沖縄から半島へ入り、百済も新羅も高句麗さえも倭人が作ったとでも言うのである。私には考えられない。
結果はどうあれ、毎日加治木さんに学びながらも戦っているのである。相手の主張は十分に聞くつもりだが、これと戦うことで私の歴史もいっそう進歩すると信じている。

問題ははっきりしている。つまり加治木氏はスキタイをシャカ族、つまりインドから海を伝わってやってきた仏教徒ととらえていることで、私はシャカ族=スキタイは同意するものの、インドへ入ったのはその一部に過ぎないと思っている。即ち、スキタイ支配層は無神教で、仮に信仰があったとしたらおそらくミトラである。
彼らスキタイは中央アジアから宗教を人民支配の手段とし、キリスト、ユダヤ、ヒンズー、イスラム教などを使い世界を分断支配したのである。単に仏教徒としてとらえ、インドから船で宣教したと考えるとフン族、匈奴、突厥などの遊牧民の実態を誤るであろう。
加治木氏は半島から日本への渡来を否定するために、逆説を展開しているものと認識する。スキタイが海洋民族とするのは間違いで、あくまで国家を持たない中央アジアの覇者という位置づけをしないことには歴史が解明できないのである。
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by sibanokuni | 2010-02-06 06:09 | マヨちゃんの古代史

新撰姓氏録は生かせるか?

昨日は新撰姓氏録のデーターがネットにあったので、その表をエクセルに取り込み、少々加工し、さらにそれをアクセスというデーターベースに変換。自分なりの姓氏データーベースを完成させた。
まず、加治木さんはこの新撰姓氏録を高く評価しているし、いろいろな研究家も必ずこれを引用するから、間違いなく一級資料なのだろう。あまり見たことなかったけどね・・・。
ちょっと調べてみようか、WIKI「京および畿内に住む1182氏を、その出自により「皇別」・「神別」・「諸蕃」に分類してその祖先を明らかにし、氏名(うじな)の由来、分岐の様子などを記述するものであるが、主として氏族の改賜姓が正確かどうかを判別するために編まれたものである。後述するように、記載氏族が限られているとはいえ、日本古代氏族あるいは日本古代史全般の研究に欠かせない史料である。

現存する『新撰姓氏録』は、目録だけの抄記(抜き書き)であって本文は残っていないが、所々にその残滓が認められるとともに、若干の逸文が知られている。なお、本書の対象とする範囲は京(左京・右京)と五畿内に住む姓氏に限られており、また「序」にはそれすらも過半が登載されていないと記している。

なお、書名に「新撰」とつくのは、企画倒れで終わった『氏族志』のやりなおしという意味であって、『新撰姓氏録』以前に『姓氏録』なる書が存在していたわけではない。」

いずれにしても、アクセスというプログラムはただ単に表を並べ替えるだけのソフトではなく、いわゆる業務ソフトを作製するいわゆる開発ツールなのだが、もう最近はそれを利用することもなくなってしまった。つまり、扱い方が難しいので、離れているとさっぱり使い方を忘れてしまうのだ。
ただの表操作だけならエクセルのほうがはるかに早い、しかし、アクセスでデーターベースを作っておけば今後それに何らかのリンクを取ることで無限の活用法が見出せるかもしれない。

まあ、そんなことで昨日はその表を眺めていたため研究はさっぱり進まなかった。
アクセスというプログラムは高価だし、一般的には必要がないので皆さんはほとんど知らないと思う。しかし、このアクセスを使いこなせれば、一般企業の大半の業務プログラムは作ることが出来るのですよ。もちろん非常に難しいのですが。
とにかく私は30年以上前はコボルという言語でプログラマーをやっていたことがある。非常に簡単なプログラムで、半年も現場にいれば誰でも使いこなせる程度の言語である。ただし、その現場を離れる頃からデーターベースという概念が出来、二十年ほどたって久しぶりにコンピューターに立ち向かった時、その変化に驚くと共に、とてもついていけないことを悟った。とにかくリアルタイムにデーターを操作すること自体が私にはとても危険で、受け入れられないものだったからだ。
まあ、そんなことを書いても仕方がないな・・・。

私の言いたいのは、今あなたが若いのなら、ぜひこのデーターベースを学ぶべきだという事。たしかサンなんとか・・だったかな、スターオフイスだったかな、無料で使えるオフイスソフトにデーターベースがあったと思う。それでいいから使ってみるべきだ(昨晩私も見てみたが、難しそうだった)。このデーターベースソフトをある程度使えれば日本中に仕事があるはずだ。

私はあるバイトでアンケートの集計をしたことがあるが、アクセスを使えば入力から集計まで、それですべてが出来るのだ。もちろん三次元の集計はエクセルのほうが早いからアクセスからエクセルへエクスポートし、エクセルで加工、出力するのである。出来た資料をワード、もしくはイラストレーターに貼り付け、最終報告書として印刷所へ回すのである。・・・・あー、おもしろかったな・・。

とりあえず、せっかくのデーターですからダウンロードできるようにしたいけど、どうしようか?ちょっとやり方を考えますね。
とりあえず、河内国にいた古市さんは百済王の子孫だってさ。まゆみさんは、やっぱし姫様なんだな。たしか前ブログに書いてたから知ってると思うけど・・・。虎王では何もわかんないね。

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連番・・・・本貫・・・・・種別細分・・・・・氏族名 ・・・・姓 ・・・同祖関係始祖
1042  河内国  諸蕃百済   古市村主  村主  出自百済国虎王也
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by sibanokuni | 2010-02-05 06:19 | マヨちゃんの古代史

「旧唐書」と「新唐書」のどっち?

相変わらず加治木さんを読んでいる。このまま捨てるにはもったいない気がするからで、中途半端ながら「WAJIN」も読み出した。とにかく関係する本を全部読まないことには彼の論理がわからないからだ。
そこまで読む必要があるのか、といえば、私は価値はあると思う。結論はともかくとして、彼の考察はなかなか面白いからだ。

さて、日本として唐へ朝貢したのは7世紀後半ごろと思われるが、唐の史書には3種類あり、本来は同じように書かれていなければならないが、少しずつニュアンスが違う。これをどのように読み解くのはなかなか難しいのである。ちなみに列島が統一され、日本が統一されたのは白村江の戦い(663年)の後である。これは私も異存はない。当時の列島を倭国とするのか、倭人の国にするのか、大和の国なのかは誰もわからないが、倭国と考えないことには話が続かない。
三種類の史書の差を比べてみよう。「新唐書は、1060年に完成しています。 907年に唐が滅亡した後、50年以上も後に作られています。 また、945年に(旧)唐書が作成されているのにもかかわらず、その後100年以上も経ってから作成されています。 どういう思惑があったのでしょう。 当時の日本は、摂関政治により藤原氏全盛の時代です。 旧唐書では、冒頭、倭国とは古の倭奴国なりで始まっていて、倭国が中国の勢力下にあり、日本国は別種だと、日本国を北方騎馬民族である出雲の勢力と見なしているようでした。 ところが、新唐書になりますと、一転して日本は古の倭奴なりとされています。 これは、どういうことなのでしょう。」
http://kodaishi-21.hp.infoseek.co.jp/p3-6.htmlより拝借。

「唐会要の倭国・日本伝」から
古の倭奴国なり。新羅の東南に在り、大海の中で暮らす。代々中国と通交する。その王の姓は阿毎氏。官には十二等を設けている。
日本。倭国の別種である。その国は日辺に在る故に、日本国を以て名と為した。あるいは倭国は自らの名が雅ではないことを憎み、日本に改名した、あるいは日本は昔は小国だったが、倭国の地を併呑したという。

「旧唐書の倭国・日本伝」
倭国とは、古の倭奴国なり。京師から一万四千里、新羅の東南の大海中に在り、山島に依って暮らす。東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程。代々中国と通じている。
日本国は、倭国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。

「新唐書 倭国・日本伝」
 日本は、古の倭奴なり。京師から一万四千里、新羅の東南にあたり、海中に在る島に暮らしている。東西には五カ月の行程、南北には三カ月の行程。
咸亨元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号した。使者が自ら言うには、国は日の出ずる所に近いので、国名と為した。あるいは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すともいう。

旧唐書と新唐書のどちらが正しいのかはいまのところ答えることは出来ないが、日本が倭を併合したのか、倭に併合されその号を取られたとするのかは大いに問題である。なぜなら前者なら加治木さんが言うように日本という小国が倭国を乗っ取ったことになり、どこかに日本国があったわけでそれを探さなければならない。しかし、新唐書なら倭国が名前を変えて勝手に日本になったようなニュアンスが感じられるからだ。
ましてや、前者では日本の支配者が倭国の支配者になったのであり、後者であれば倭国が支配者である。

加治木説を取るなら前者(旧唐書)であり、私は新唐書が正しいという立場になる。とりあえず、このことは言葉尻というわけでなく、極めて重大なことゆえ、どうしても書いておかねばならない。つまり、倭国が日本と新羅になったのか、日本が倭国を乗っ取り、さらに新羅にもなったというのであるから・・・。

サムライさんはすぐに読むのを止めたそうだが、私は加治木さんの論理展開が面白いのでもう少し研究し、自分のマヨ理論に利用させてもらおうとずるい考えを持っている。しばらく時間がかかるので、もうしばらくお持ちください。
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by sibanokuni | 2010-02-04 06:23 | マヨちゃんの古代史

新羅は九州にあったの?

現在、加治木さんの「KOFUN」(誰が巨大古墳を造ったのか」を読んでいる。一度さらっと読み、もう一度要点をまとめようとゆっくり読んでいるところだ。
非常にすぐれた研究ですごいなと思う反面、どうしても私には受け入れがたい事がある。それは、この本を読む限りにおいてであるが、彼は韓半島から日本へ支配者が渡来した事を断固否定していることだ。そして、何より倭国が九州にあり、もちろん卑弥呼も九州、高句麗も新羅も九州、百済はなんと、大阪にあったという。いくら彼の出身が九州でもちょっと無理があるのと違う?では韓半島には何があったの?

一番私と違うことは、彼は韓半島の後ろにまったく目を向けていないところである。いわゆる日本近辺で歴史を語っているのである。私は日本、あるいは半島が広いユーラシア全体の中で孤立して生きてゆけるわけがないと思っている。つまり、高句麗が中央アジアや中国地域からの脅威にさらされた時、まったくそれに無関心でいられるわけがないのである。
まあ、これは歴史観で済む話ではないと思うのだが。

ところで次の文を読んでいただきたい。

「新羅の36代景徳王は761年に九ヶ州五小京117郡293県に及ぶ地名改名を断行した。倭人の命名した地名を、ことごとく改め、その名残を一掃しようとしたのである。・・・それは4年前に新羅にやってきた日本の国使の無礼な態度に怒った王が、会わずに帰国させたというほど日本嫌いが底流にあった。・・・・唐代以前には新羅の官職名は全部「倭の名前」が付いていたのである。それがこの改革を期に倭の名残が一掃し・・・・倭の名残を拭い去る努力が払われたのである。」(「kofun」p135から137)

膨大な文章の一部だけを切り取って論議するのは申し訳ないが、この文章を読めば、これは新羅の地、すなわち統一新羅のことだから韓半島大部分の事である、その地名が倭名だったのである。誰が読んでもそうなるのだが、加治木氏はどうも違うのである。
新羅のもともとは九州南部にあったと述べ、大化の改新のときに半島へ攻め上り新羅を建国したと言いたいようなのだ。では、なぜその半島に倭名がついていたの?誰が名をつけたの?
倭国は九州にあり、そこは金春秋に亡ぼされ日本になった。それは私もそう思う。しかし、百済は大阪にあり、日本に統合されたと述べている。高句麗がどこにあったかというと、これの本国は熊本だったそうである。という事は唐は熊本まで高句麗を攻撃しに来たというのか?満州地域の高句麗は誰が支配したの?
天智天皇が金春秋だったのは同感だが、彼は半島へ赴き新羅を建国し、さらに大阪へ攻め入り日本を統一したというの?さすがに一人何役は無理じゃないの?

アー、頭が痛くなる・・・・もう考えたくない。
一つ一つの話はそれほどおかしくはないのだが、全体とすると私の頭はぶち切れそうである。読めば読むほど基本的なところが違っているとしかいえない。
とにかく全部が日本の中のことで、韓半島も日本人が占領したと言いたいわけだ。それほどまでに騎馬民族征服説が気に入らないみたい。もちろん私も江波氏の論は認めないが、それでも当時の学会の状況からすれば、まだマシなほうなのだ。
「KOFUN」においても「TAIKA」でも素晴らしい歴史解明をしていながらどうもおかしいのだ。
何がおかしいかといえば、やはり出発点がおかしいとしか言えない。つまり、卑弥呼がおかしいのだろう。
全部で4冊仕込み、後二冊読まなくちゃならないのだが、ちょっと考え込んでしまった。
そういえば、以前、この人の事を聞いたとき私は「言語学者は信用できないから・・・」と答えたような気がする。今それを思い出し、やはり私の考えは間違っていないと思う。
彼の頭には韓半島の上にある満州やさらにその奥であるモンゴル、シベリアの事がまったくないのだ。満州あたりで五胡十六カ国が大混乱で戦争を行っている時に半島がまったく影響を受けていないはずはないだろう。また、高句麗も新羅も百済も倭国も日本にいたとするなら韓半島は一体誰が支配していたというのだ。
唐や隋があたりまえのように支配するはずじゃないのか?でも、惜しいな、彼の考察は決して無駄じゃないのだ。ただ、結論ありきの研究なんだよね。この先どうしようかな・・・・・・?
いずれにしても魏志倭人伝という陳寿が書き残した司馬仲達への「よいしょ」記事を額面どおり解釈し、それを前提に歴史を積み上げてゆけば出来上がったすべては砂上の楼閣で、てっぺんに到達した時にはもう後戻りは出来ないのである。もったいないことだ。
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by sibanokuni | 2010-02-02 20:38 | マヨちゃんの古代史

アッシリアから日本へ

ちょっと世界史のお勉強をしましょう。言っておきますが、世界史は小学生レベルですから笑わないでくださいね、特に古代オリエントの歴史は頭痛くなるもんね・・・・。教科書としてこちらを使いました。

注)少し追加をしています。

とりあえずアッシリアからです。前8世紀から前7世紀、メソポタミアからエジプトまでのオリエント全域をアッシリア帝国が統一した。場所はもろにイラク周辺です。(写真もそこから借用)
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 この帝国を建設したアッシリア人はセム語系で、前20世紀以前からティグリス川上流のアッシュールという都市を中心に交易活動等をしていた。古バビロニア王国やミタンニに服属していたが、前14世紀に、一時独立を回復。
そして、前9世紀ごろから急に勢力を伸ばす、それは鉄器時代になったからで、アッシリアは騎兵隊を導入し、弓を使った。これが圧倒的に強かったのである。

アッシリアは全国を属州、属国として、多くの民族を支配したが、その支配の仕方が酷くい。抵抗した都市の住民の生皮を剥いで城壁に貼りつけたり、串刺しにしたり、とにかく力で押さえつけるものだった。その代表が「強制移住政策」というものだった。
しかしあまりの強引さに周りから反撃を受け、北方のスキタイ人の攻撃と、支配下のカルデア人、メディア人等の反乱で首都ニネヴェは前612年に陥落し、前609年、アッシリア帝国は滅亡した。
皇紀元年は紀元前660年だから、アッシリアが滅びる50年ほど前に天皇家はうまく脱出したということか?

アッシリアが滅亡したあと、この近辺に四カ国が誕生した。リディア王国、メディア王国、エジプト、新バビロニアである。

さてこの新バビロニア王国の王様があの有名なバビロン捕囚をする。ブカドネザル2世という。そしてリディア王国は昔ヒッタイトがあった地域で建国した。場所的に言うなら今のトルコあたり、最古の製鉄部族ですな。
メディア王国は現在のイランとイラク北方に当たるかな?

この四国を再び統一するのがアケメネス朝ペルシャで、インダス川に到る大帝国を作る。ペルシャ人というのはメディア王国に服属していたがBC550年ごろその四国を征服し、統一した。
注目すべき問題はこの王国の宗教で、ゾロアスター教なのである。さらに、首都の名前がスサという。うーん、なんかぞくぞくしてこない。

鹿島氏によれば、中国の秦はペルシャ人が建国したのだという。その根拠は大変だからここでは述べない。
まあ、今日のお勉強はこのへんまでにしておきましょう。
ひょっとして栗原さんの言いたいのは、秦へお種が移ったってこと?
その考えも成り立つけれど、むしろスキタイ族がアッシリアを亡ぼし四つの国を作ったと解釈するのも一つの考え方かも。つまり、ひとつの神がアッシリアに降臨し、4つの神さまをお作りになった?

とりあえず、秦の始皇帝はひとつの選択肢ではあるな・・・。

WIKIで「秦」を見ると、「秦(しん、ピン音:Qín、紀元前778年 - 紀元前206年)は、中国の王朝。周代、春秋時代、戦国時代に渡って存在し、紀元前221年に中国を統一したが、紀元前206年に滅亡した。統一から滅亡までの期間(紀元前221年 - 紀元前206年)を秦代と呼ぶ。国姓は嬴(えい)。統一時の首都は咸陽。」とあり、なんと、姓はこないだ出てきた天武の名前の中にあった嬴があるじゃん。
やっぱり、天武はペルシャ人なのかな?加治木さんはラテン人だといっていたな・・・。

もちろん、私は天武をソグド人と言っていたが、ペルシャ人とは同じようなものだから別に文句はないけれど、この説で行くと、アッシリアから秦王国を建国し、亡びたあと中国に留まり、こっそりと生き残り、高句麗から日本へやってきたというごくまともな歴史になるな。あまり面白い展開ではないな・・・・・。いやですよ、私は除福伝説は信じていませんからね。ましてやそれではツランとまったく関連がなくなる。この線は却下したいな。

早い話、秦国はスキタイ的にいえば中央軍であり、右軍は海へ、左軍はカフカスへ向かうはずである。ツランは左軍である。調べて行きたいけど、わかるかな・・・・?
先ほど、サムライさんから、栗原さんはお種がアッシリアとは一言も言っていないですよ、とメールが入った。やっぱし!だから、スキタイなんだって。このスキタイこそ私の生涯のテーマなんだ。これがお種の元なのだ。

まあ、そんなに急ぐ話ではないから、次回はペルシャ帝国をお勉強しよう、なにせ世界史はよく知らないものだから、はずかしいな。皆さん一緒に勉強しましょう。
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by sibanokuni | 2010-02-02 06:09 | マヨちゃんの古代史

金のユリ作戦を知ってます?

久しぶりにゴールデン・リリーの話をしよう。このゴールデン・りりーとは昭和天皇の読まれた歌にちなんで「金のユリ」と名付けられた戦時中の略奪作戦を総称するものである。始めてこの話を読んだときは本当に驚いた。それはシーグレイブ氏の「Yamato Dynasty」で始めて世に紹介され、さらに続編である「Goldwarriors」で全貌があきらかにされた。(始めて聞く方はクリックしてダウンロードしてください)
前者は二年ほど前に日本語版が出版され、続編である「黄金の兵士」は現在日本語版を準備中だという。この件は私にも連絡があり、私がネットで翻訳を公開していることをシーグレイブ氏は承知しており、その勇気を高く評価してくださっているとのことである。私の翻訳は素人のレベルであり、さらに名古屋弁?が登場したりするので、あいにく採用する事は出来なかったようだ。(あったりまえだよね・・・、私はわかればいい、というレベルの翻訳だから・・・)

「金のユリ作戦」のことをほとんどの人は「まさか」といって信用してくれないのだが、現実に私の元には裁判中の事件を担当する弁護団の人からメールをいただいていて、少なくともフィリピンに想像を絶する金塊が秘匿されていた事は事実なのである。(この裁判とは、埋蔵金を発見したフィリピン人サンティーの娘がスイスやアメリカ、さらには日本の銀行に対し起している預金返還交渉である。もう決着が付くはずなのだが、最近連絡が来ていない。)

この「作戦」を知って始めてM資金、小野田さん事件、マルコス政権の末路・・などが説明できるのである。
ただ問題なのは、この作戦が本当に皇室主導でなされたものか、軍部が勝手にやったものなのか、もっと疑うのなら、米英も参加しての八百長だったのか、誰も答えてくれないことである。もちろんシーグレイブ氏によれば天皇が決定した事になっているが・・・。

私も単純だったので、シーグレイブ氏の書くまま全面的に信用してきたが、今から思えばそれほど単純なものではなく、ヨーロッパのユダヤ人富豪の財産や、アジアの華僑の財産を没収する事が第二次大戦の動機そのものだったのではないかとも思えるのである。要は世界の富を英国と日本で山分けしようとしたのではないかと。一番考えられるのは、アヘン貿易のおかげでヨーロッパには金の在庫がなくなってしまっていた可能性があり、金本位制が出来なくなっていたということである。(憶測です)

私は、大本教の研究や満州での日本軍の活動を研究してゆくうち、世界には大きな二つの陣営がある事に気がついた。それのひとつがツランで、今ひとつが英国ワン・ワールドである。

今までの研究で日本軍は西欧各国の覇道主義に対しツラン同盟、もしくは大アジア主義で対抗しようとしていたことがわかる。しかし、日本の内部に侵入していた英ワン・ワールドの手先に主導権を奪われ、日本はワン・ワールドの一員として八百長試合に参加した。
これはひとつの仮説に過ぎないが、天皇はワンワールドの一員として参加する振りをして多大な犠牲を払いながらも実利を取ったと考えることができる。その証拠として、戦後日本は有り余るような略奪資産を利用する事で世界の覇者になったのである。昭和天皇は戦争には負けたものの最後はアメリカに勝利して死んでいった。言ってみれば「目的は手段を正当化するのである」、この事を学ばない事には歴史が見えないのだ。

もちろんそれらを私が正しい事だと言っているのではない。世の中にはきれい事ではすまないこともあると言うことだ。
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by sibanokuni | 2010-02-01 06:21 | シバちゃんのため息



ため息ばかりのシバちゃんと、ぼやいてばかりのご主人様、マヨの日記です。
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